言うに及ばず、遠い村々の旦那《だんな》衆まで集って、町は人で埋められるのが例で、その熱狂した群集の気勢ばかりでも、静止《じっと》していられないような思をさせる。こういう時にも、お種は家を守るものと定《き》めて、それを自分の務めのように心得ていた。
 実家の父――小泉忠寛の名は、時につけ事に触れ、お種の胸に浮んだ。お種や三吉の生れた小泉の家は、橋本の家とは十里ほど離れて、丁度この谿谷《たに》の尽きようとするところに在《あ》った。その家でお種は娘の時代を送った。父の忠寛は体格の大きな、足袋《たび》も図無《ずな》しを穿《は》いた程の人で、よく肩が凝ると言っては、庭先に牡丹《ぼたん》の植えてある書院へ呼ばれて、そこでお種が叩かせられたもので、その間に父の教えたこと、話したことは、お種に取って長く忘れられないものと成った。そればかりではない、父は娘が手習の手本にまで、貞操の美しいことや、献身の女の徳であることや、隣の人までも愛せよということや、それから勤勉、克己、倹約、誠実、篤行などの訓誨《くんかい》を書いて、それをお種に習わせたものであった。
 こういう阿爺《おやじ》を持って嫁《かたづ》いて来た人の腹《おなか》に正太が出来た。お種は又、夫の達雄が心配するとは別の方で、自分の子が自分の自由にも成らないことを可嘆《なげかわ》しく思った。彼女は、炉辺で、正太のことばかり案じていた。
「宗助――幸助――宗助――幸助」
 と御輿を担いで通る人々の掛声を真似《まね》ながら、一人の小僧が庭口へ入って来た。この小僧は、祭の為に逆上《のぼ》せて了《しま》ったような眼付をして、隠居が汲《く》んで置いた水を柄杓《ひしゃく》でガブガブ飲んだ。
 三吉も帰って来た。お種は祝の強飯《こわめし》だの煮染《にしめ》だのを出して、それを炉辺で振舞っていると、そこへ正太が気息《いき》をはずませて入って来た。
「母親《おっか》さん、何か飲む物を頂戴《ちょうだい》。咽喉《のど》が乾いて仕様が無い」と正太は若々しい眼付をして、「今ネ、御輿の飾りを取って了ったところだ。鳳凰《ほうおう》も下した。これからが祭礼《まつり》だ。ウンと一つ今年は暴《あば》れ廻ってくれるぞ」
「まあ、騒ぎですネ。正太、お前も強飯《おこわ》を食えや」とお種が言った。
「叔父さん、御覧でしたか」と正太は三吉の方を見て、「どうです、田舎の祭は。変ってましょう。殊《こと》に是処《ここ》のは荒神様《あらがみさま》で通っていますから、あの大きな御輿を町中|転《ころ》がして歩くんです。終《しまい》に、神社の立木へ持ってッて、輿を担《かつ》ぐ棒までヘシ折って了う。その為に毎年白木で新調するんです――エライことをやりますよ。髭《ひげ》の生《はえ》た人まで頬冠で揉《も》みに出るんですからネ」
 乾いた咽喉を霑《うるお》した後、復た正太は出て行った。
「宗助――幸助――宗助――幸助」
 と小僧が手拭《てぬぐい》を首に巻付けて出て行くのを見ると、三吉も姉の傍に静止《じっと》していられないような気がした。


 夜に入って、谷底の町は歓楽の世界と化した。花やかに光る提灯の影には、祭を見ようとする男女の群が集って、狭い通を潮のように往来した。押しつ押されつする御輿の地を打つ響、争い叫ぶ若者の声なぞは、人々の胸を波打つようにさせる。王滝川の岸に添うて二里も三里もある道を歌いながら通って来る幾組かの娘達は、いずれも連に離《はぐ》れまいとし、人に踏まれまいとして、この群集の中を互に手を引合って歩いた。中には雑踏《ひとごみ》に紛れて知らない男を罵《ののし》るものも有った。慾に目の無い町の商人は、簪《かんざし》を押付け、飲食《のみくい》する物を売り、多くの労働の報酬《むくい》を一晩に擲《なげう》たせる算段をした。町の中央にある広い暗い場処では踊も始まった。
 祭の光景《ありさま》を見て廻った後、一しきりは三吉も御輿に取付いて、跣足《はだし》に尻端折《しりはしょり》で、人と同じように「宗助――幸助」と叫びながら押してみたが、やがて額に流れる汗を拭《ふ》きつつ橋本の家の方へ帰って来た。足を洗って、三吉は涼しい風の来る表座敷へ行った。そこで畳の上に毛脛《けずね》を投出した。
「三吉帰ったかい」
 こう言いながら、お種も団扇《うちわ》を持って入って来た。
「私も横に成るわい。今夜は二人で話さまいかや」
 と復たお種が言って、弟の側に寝転《ねころ》んだ。東京にある小泉の家のことは自然と姉の話に上った。相続人《あととり》の実も今度はよくやってくれればいいがということ、次の森彦からも暫時《しばらく》便《たよ》りが無いこと、宗蔵の病気もどうかということ、それからそれへと姉の話は弟達の噂《うわさ》に移って、結局吾子のことに落ちて行った。お種は三吉の考えないよ
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