てみた。
「ええ――ずっと河の岸を廻って来ました」と直樹は答える。
 その時、正太は床の間にある花瓶《かびん》を持出して、直樹が持って来た百合だの撫子《なでしこ》だのの花で机の上を飾った。
「兄さん、山脇《やまわき》の姉さんがチト御遊びに被入《いら》っしゃいッて――真実《ほんとう》に兄さんは遠慮深い人だって」
 こう直樹が自分の親戚からの言伝《ことづて》を三吉に告げた。三吉はあまり町の人を訪問する気が無かった。
 活気のある鈴の音が谷底の方で起った。急に正太は輝くような眼付をして、その音のする方を見た。
「ア――御岳《おんたけ》参りが着いたとみえるナ」
 と正太は独語《ひとりごと》のように言った。高山の頂を極《きわ》めようとする人達が、威勢よく腰の鈴をチリンチリンチリンチリン言わせて、宿屋に着くことを楽みにして来る様子は、活気が外部《そと》からこの谷間《たにあい》へ流れ込むように聞える。正太は聞耳を立てた。その音こそ彼が聞こうと思うものである。彼は縁側にまで出て聞いた。


 祭の日は橋本でも一同仕事を休んだ。薬の看板を掛け、防火用の黒い異様な大団扇《おおうちわ》を具《そな》え付けてある表門のところには、時ならぬ紅白の花が掛かった。小僧達も新しい仕着《しきせ》に着更えて、晴々しい顔付をして、提灯《ちょうちん》のかげを出たり入ったりした。
 お種は表座敷へ来て、
「三吉、お前さんは羽織が有るまいがナ」
 と弟の顔を眺めた。三吉もサッパリとした単衣《ひとえ》に着更えていた。
「羽織なんか要《い》りません。これで沢山です」と三吉が言った。
「正太の紋付を貸すで――今に吾家《うち》の前を御輿《みこし》が通るから、そうしたら兄さん達と一緒に出て見よや」
「借着をして祭を見るのも変なものですナア」
「何が変なものか。旅では、お前さん、それが普通《あたりまえ》だ」
「私はどうでも可《よ》う御座んすが、姉さんが着た方が可いと思うなら、借りましょう――」
 旅で祭に遇《あ》った直樹は、方々の親類から招《よ》ばれて、出て行った。正太を始め、薬方の若衆も皆な遊びに出た。町の方が賑《にぎや》かなだけ、家の内は寂しい。
「姉さん」と三吉は、姉が羽織を出しに行く序《ついで》に、物を頼むという風で、「この節私は夢を見て困りますが、身体《からだ》の故《せい》じゃないかと思うんです……サフランでも有るなら、すこし私に飲ましてくれませんか」
「そんなことは造作ない。吾家《うち》にあるから、くれる」
「母親《おっか》さんが生きてる時分には、時々私に飲ましてくれましたッけ――女の薬だが、飲めッて」
「ええ、男子《おとこ》にも血が起るということは有るで」
 こう言って、お種は出て行った。やがて橋本の紋の付いた夏羽織と、薬草の袋と、水とを持って来た。紅いサフランの花弁《はなびら》は、この家で薬の客に出す為に特に焼かした茶椀の中へ浸して、それを弟に勧める。
「どんな夢を見るよ」と姉が聞いた。
「私の夢ですか」と三吉は顔に苦痛を帯びて、「友達の中には、景色の夢を見るなんて言う人も有りますがね、私は景色なぞを一度も見たことが無い。夢と言えば女が出て来る」
「馬鹿らしい!」と姉は嘲《あざけ》るように。
「いえ、姉さん、私は正直なところを話してるんです。だからこんな薬なぞを貰って飲むんです」
「お前さんの知ってる人かい」
「ところが、それが誰だか解らない。どう後で考えても、記憶《おぼえ》の無いような人が出て来るんです――多くは、素足で――火傷《やけど》でもしそうな、恐しい勢で。昨夜なぞは、林檎畠《りんごばたけ》のようなところへ追詰められて、樹と樹の間へ私の身体が挾《はさま》って、どうにも逃げ場を失って了った……もうすこしで其奴《そいつ》に捕まるかしらん……と思ったら目が覚《さ》めました。汗はビッショリ……」
「お前さん達の見る夢は、どうせそんなものだ」
 と姉は復《ま》た嘲るように笑った。
 御輿の近づいたことを、お仙が報《しら》せに来た。女連《おんなれん》は門の外まで出た。そこから家々の屋根、町の中央を流れる木曾川が下瞰《みおろ》される。三吉は長過ぎるような羽織を借りて着て、達雄と一緒に崖《がけ》の下へ降りた。



 御輿の通り過ぎた後、お種は娘に下婢《おんな》を付けて祭を見せにやり、自分は門の内へ引返した。店口の玄関のところには、手代の幸作が大きな薬の看板に凭《もた》れながら、尺八を吹いて遊んでいたが、何時《いつ》の間にかこれも出て行った。広い家の内にはお種一人残った。
 急に周囲《そこいら》が闃寂《しんかん》として来た。寺院《おてら》のように人気《ひとけ》が無かった。お種は炉辺《ろばた》に坐って独《ひと》りで静かに留守居をした。この祭には、近在の若い男女《おとこおんな》は
前へ 次へ
全74ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング