っかく》思い立った東京の遊学すら、中途で空《むな》しく引戻されて了った。やれ大旦那が失敗したから、若旦那には学問は無用だことの、やれ単独《ひとり》で都会に置くのは危いことの、種々な故障が薬方の衆から出た。「家なぞはどうでもいい」と思うことは屡々《しばしば》有ったのである。
この座敷から谷底の方に聞える木曾川《きそがわ》の音も、正太には何の新しい感じを起させなかった。彼は森林の憂鬱にも飽き果てた。「こうして――一生――山の中に埋れて了《しま》うのかナア」それを考えてみたばかりでも、彼には堪え難かった。どうかすると、彼は話の途中で耳を澄ました。そして、引入れられるような眼付をして、熟《じっ》と渓流の音に聞き入って。
お種が入って来た。
「ネブ茶を香ばしく入れましたから、持って来ました」とお種は款待顔《もてなしがお》に言て、吾子《わがこ》と弟の顔を見比べて、「正太や、叔父さんにも注《つ》いで進《あ》げとくれ」
この「ネブ茶」はある灌木《かんぼく》の葉から製したもので、三吉も子供の時分には克《よ》く飲み慣れた飲料である。
「どうでした、吾家《うち》の蔵には三吉の見るような書物《ほん》が有りましたか」とお種が聞いた。
「ええ……有りました」と三吉は気の無い返事をする。
お種は、二人が睦《むつ》まじそうに語る様子を眺めて、やがて出て行った。
若いもの同志の話は木曾|少女《おとめ》の美しいことに落ちて行った。その時、三吉は姉から聞いた娘のことを言出して、正太の意中を叩《たた》いてみた。正太は、唯、あわれに思うというだけのことを泄《も》らした。彼の心では、そんな話を聞いて貰う前に、何故《なぜ》に自分の恋が穢《けが》れて行くかを語りたかったのである。
暫時《しばらく》二人は無言でいた。
「しかし、叔父さん――この町にも種々《いろいろ》な青年が有りますがね、どうも家にばかり居るような人は面白味が有りません……やっぱり働きもすれば遊びもする、そういう人の方が話せるようですね」こう正太が言出した。
香ばしい「ネブ茶」を飲み、巻煙草《まきたばこ》を燻《ふか》しながら、叔父|甥《おい》は話し続けた。正太の方は実業に志し、東京へ出た時は主に塗物染物のことを調べ、傍《かたわ》ら絵画の知識をも得ようとしたものであったが、性来物を感受《うけい》れる力に富むところから、三吉などの向いて行こうとする方面にも興味を感じている。その日も、三吉の書きかけた草稿を机の上に展《ひろ》げて、清《すず》しい、力のある父の達雄に克《よ》く似た声で読聞かせた。
東京で送った二年――殊《こと》にその間の冬休を三吉叔父と一緒に仙台で暮したことは、正太に取って忘れられなかった。東京から押掛けて行くと、丁度叔父は旅舎《やどや》の裏二階に下宿していて、相携えて人を訪ねたり、松島の方まで遊びに行ったりした。あの時も、仙台で、叔父の書いたものを見せて貰って、寂しい旅舎の洋燈《ランプ》の下でその草稿を読み聞かせながら、一緒に長い冬の夜を送ったことが有った。それを正太は言出さずにいられなかった。
「そうそう」と三吉も思出したように、「丁度岩沼の基督降誕祭《クリスマス》に招ばれて行った後へ、君が訪ねて来て……あんな田舎らしい基督降誕祭に遭遇《であ》ったことは僕も始めてでしたよ……信者が五目飯なぞを煮《た》いて御馳走《ごちそう》してくれましたッけ。あの晩は長老の呉服屋さんの家に泊って、翌朝《あくるあさ》阿武隈川《あぶくまがわ》を見に行って、それから汽車で仙台へ帰てみると、君が来ていた……」
「そうでしたね……あの二階から海の音なぞも聞えましたね」と正太は若々しい眼付をして言った。
「仙台は好かったよ。葡萄|畠《ばたけ》はある、梨畠はある……読みたいと思う書籍《ほん》は何程《いくら》でも借りて来られる……彼処《あすこ》へ行って僕も夜が明けたような気がしたサ……あれまでというものは、君、死んでいたようなものだったからね」と言って、三吉は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「考えてみると、僕のような人間がよく今まで生きて来たようなものだ」
正太は叔父の顔を眺めた。
三吉は言葉を継いで、「彼処へ着いた晩から、僕は最早《もう》別の人だった。種々な物が活《い》きて見えて来た。書く気も起った……」
「あの時叔父さんの書いたものは、吾家《うち》に蔵《しま》ってあります」
「しかし正太さん、お互にこれからですネ。僕なぞも未だ若いんですから、これから一つ歩き出してみようと思いますよ……」
こんな話をしているところへ直樹が入って来た。直樹は中学に入ったばかりの青年で、折取った野の花を提げて、草臥《くたぶ》れたような顔付をしながら屋外《そと》から帰って来た。
「直樹さん、何処《どちら》へ?」と三吉が聞い
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