だ。何気なく三吉はその一冊を取上げて見た。
 直樹の父親の名なぞが出て来た。それは三吉が姉と一緒に東京で暮した頃の事実《こと》で、ところどころ拾って読んで行くうちに、少年時代の記憶が浮び揚《あが》った。その頃は姉の住居《すまい》でもよく酒宴を催したものだった。直樹の父親が来て、「木曾のナカノリサン」などを歌い出せば、達雄は又、清《すず》しい、恍惚《ほれぼれ》とするような声で、時の流行唄《はやりうた》を聞かせたものだった。直樹の父親もよく細《こまか》い日記をつけた。これはそう細いという方でもないが、何処《どこ》か成島柳北《なるしまりゅうほく》の感化を思わせる心の持方で、放肆《ほしいまま》な男女《おとこおんな》の臭気《におい》を嗅《か》ぐような気のすることまで、包まず掩《おお》わずに記しつけてある。思いあたる事実《こと》もある。
 静かな蔵の窓の外には、熱い明るい空気を通して庭の草木も蒸されるように見える。三吉はその窓のところへ行って、誰がこの柳行李の蓋を取て置いたかと想像した。あるいは正太がこの隠れた場処で、父の耽溺《たんでき》の歴史を読みかけて置いたものではなかろうか、と想《おも》ってみた。


 重い戸を閉めて置いて、三吉は蔵の石階《いしだん》を下りた。前には葡萄棚《ぶどうだな》や井戸の屋根が冷《すず》しそうな蔭を成している。横にある高い石垣の側からは清水も落ちている。心臓形をした雪下《ゆきのした》の葉もその周囲《まわり》に蔓延《はびこ》っている。
 この場所を択《えら》んで、お仙は盥《たらい》を前に控えながら、何か濯《すす》ぎ物を始めていた。下婢《おんな》のお春も井戸端に立って、水を汲《く》んでいた。お春は、ちょっと見たところこう気むずかしそうな娘で、平常《しょっちゅう》店の若い番頭や手代の顔を睨《にら》み付けるような眼付をしていたが、しかしそれは彼女が普通の下女奉公と同じに見られまいとする矜持《ほこり》からであった。こうして、お仙相手に立話をしている時なぞは、最早《もう》年頃の娘らしさが隠されずにある。彼女とても、濃情な土地の女の血を分けた一人である。
 三吉はお仙に言葉を掛けて、暫時《しばらく》そこに立っていた。丁度正太が、植木いじりでもしたという風で、土塗《つちまみ》れの手を洗いに来た。お春は言付けられて、釣瓶《つるべ》から直《じか》に若旦那の手へ水を掛けて、すこし紅くなった。お仙も無心に眺めていた。
 手を洗った後、正太は三吉叔父と一緒に成った。二人は話し話し母屋の方へ帰って行った。
 手桶を担《かつ》いだお春は威勢よく二人の側を通った。百姓の隠居も会釈して通った。隠居の眼は正太に向って特別な意味を語った。「若旦那様――お前さまは唯の若いものの気でいると違うぞなし……お前さまを頼りにする者が多勢あるぞなし……行く行くはお前様の厄介に成ろうと思って、こうして働けるだけ働いている老人《としより》もここに一人居るぞなし……」とその無智な眼が言った。
 正太は一種の矜持《ほこり》を感じた。同時に、この隠居にまで拝むような眼で見られる自分の身を煩《うるさ》く思った。
 漠然《ばくぜん》とした反抗の心は絶えず彼の胸にあった。「どうしてこう家のものは皆な世話を焼きたがるだろう、どうしてこうヤイヤイ言うだろう――もうすこし自分の自由にさせて置いて貰いたい」これが彼の願っていることで、一々自分のすることを監視するような重苦しい空気には堪えられなかった。
 田舎《いなか》風の屋造《やづくり》のことで、裏口から狭い庭を通って、表の方へ抜けられる。表座敷へ通う店頭《みせさき》の庭のところで、三吉、正太の二人は沢田老人の訪ねて来るのに逢《あ》った。
「沢田さんですか。やはり吾家《うち》の内職をしています――薬の紙を折ってます」
 こう正太は三吉に話した。
 直樹の叔父にあたるこの神経質な老人の眼は、又、こんなことを言った。「正太様――お前さまの祖母様《おばあさま》や母上様《おっかさま》は皆な立派な旧家から来ておいでる……大旦那は学問を為《し》過ぎたで、それで不経済なことを為《さ》っせえたが、お前さまは算盤《そろばん》の方も好くやらんと不可《いかん》ぞなし……お前さまの責任は重いぞなし……」
 正太はこういう人々の眼から遁《のが》れたかった。


 表座敷へ戻って、向の山の傾斜がよく見えるようにと、三吉はすっかり障子を開け展《ひろ》げた。正太も広い部屋の真中へ大きな一閑張《いっかんばり》の机を持出した。こうして、二人ぎりで、楽しい雑談に耽《ふけ》るにつけても、正太はこの叔父の何時《いつ》までも書生でいられるのを羨《うらや》ましく思った。叔父がここへ来て何を為ようと、何を考えようと、誰一人気を揉《も》む者も無い。それに引きかえて、正太は折角《せ
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