はどう思わっせるか知らんが……私は三吉の今度来たのが彼の子の為めにも好からずと思って……」
「俺も、まあそう思ってる」
この様な言葉を交換《とりかわ》した。不図、お種は洋燈《ランプ》の置いてある方へ寄って、白い、神経質らしい手を腕の辺まで捲《まく》って見て、蚤《のみ》でも逃がしたように坐っていたところを捜す。
「痒《かゆ》い痒いと思ったら、こんなに食いからかいて」とお種は単衣《ひとえ》の裾《すそ》の方を掲《から》げながら捜してみた。
「そうどうも苦にしちゃ、えらい」と達雄は笑った。
「一匹居ても、私は身体中ゾクゾクして来る」
こうお種は言って、若い時のような忍耐《こらえしょう》は無くなったという風で、やがて笑いながら台所の方へ出て行った。
三吉が東京から訪ねて来たことは、達雄に取っても嬉しかった。彼は親身《しんみ》の兄弟というものが無い人で、日頃お種の弟達を実の兄弟のように頼もしく思っている。三吉が来た為に、種々《いろいろ》話が出る。話が出れば出るほど、種々な心地《こころもち》が引出される。子に対する達雄の心配も一層深く引出された形である。
平素潜んでいたようなことまで達雄の胸に浮んで来た。先代が亡くなったのは、彼がまだ若かった時のことで。その頃は嘉助同格の支配人が三人も詰切って、それを薬方《くすりかた》と称《とな》えて、先祖から伝わった仕事は言うに及ばず、経済から、交際まで、一切そういう人達でこの橋本の家を堅めていた。彼もまた、青年の時代には、家の為に束縛されることを潔《いさぎよ》しとしなかったので、志を抱《いだ》いて国を出たものである。白髪の老母や妻子を車に載せて、再びこの山の中へ帰って来るまでには、何程の波瀾を経たろう。長い間かかって地盤を築き上げた先祖の事業《しごと》は彼が半生の努力よりも根深かった。先祖は失意の人の為に好い「隠れ家」を造って置いてくれた。彼は家附の支配人の手から、退屈な事業を受取ってみて、はじめて先祖の畏敬《いけい》すべきことを知ったのである。
「丁度正太が自分の若い時だ」と達雄は自分で自分に言った。「いや、自分以上の空想を抱いて、この家を壊《こわ》しかけているのだ」と思った。彼は、自分の子が自分の自由に成らないことを考えて、その晩は定時《いつも》より早く、可慨《なげかわ》しそうに寐床《ねどこ》へ入った。家のものが皆な寝た頃、お種は雪洞《ぼんぼり》を点《とも》して表座敷の方へ見に行った。三吉と直樹とは最早《もう》枕を並べて眠っていたが、まだ正太は帰らなかった。お種は表庭から門のところへ出て、押せば潜《くぐ》り戸《ど》の開くようにして置いた。厳《きび》しい表庭の戸締も掛金だけ掛けずに置いたは、可愛い子の為であった。
二
大森林に連続《つづ》いた谷間《たにあい》の町でも、さすがに暑い日は有った。三吉は橋本の表座敷に籠《こも》って、一夏かかって若い思想《かんがえ》を纏《まと》めようとしていた。姉は仕事に疲れた弟を慰めようとして、暇のある時は、この家に伝わる陶器、漆器、香具《こうぐ》の類《たぐい》などを出して来て見せた。ある日、お種は大きな鍵《かぎ》を手にしながら、裏の土蔵の方へ弟を導いて行った。
高い白壁の隣には、丁度物置蔵と反対の位置に、屋根の低い味噌蔵《みそぐら》がある。姉はその前に立って、大きな味噌|桶《おけ》を弟に覗《のぞ》かせて、毎日食膳に上る手製の醤油《たまり》はその中で造られることなどを話して、それから厳重な金網張の戸の閉った土蔵の内部《なか》へ三吉を案内した。
二階は広く薄暗かった。一方の窓から射し込む光線は沢山《たくさん》積んである本箱や古びた道具の類を照らして見せた。姉は今一つの窓をも開けて、そこにあるのは祖母《おばあ》さんが嫁に来た時の長持、ここにあるのは自分の長持、と弟に指して話し聞かせた。三吉は自由に橋本の蔵書を猟《あさ》ることを許された。
姉は出て行った。三吉は本箱の前を彼方是方《あちこち》と見て廻った。その時、彼は未だ自分の生れた家の焼けない前に一度帰省して阿爺《おやじ》の蔵書を見たことを思出して、それをこの家のに比べてみた。ここのはそれ程豊富では無かった。三吉の阿爺が心酔したような本居《もとおり》派の学説に関する著述だの、万葉や古事記の研究だの、和漢の史類だの、詩歌の集だの、そういうものは少なかったが、そのかわり橋本の家に特有な武術、武道などのことを書いた写本が沢山ある。経書《けいしょ》、子類《しるい》もある。誰が集めたものか漢訳の旧約全書などもある。見て行くと、三吉の興味を引くような書目は少なかった。窓に寄せて、大きな柳行李《やなぎごうり》の蓋《ふた》が取ってあって、その中に達雄の筆で表題を書いたものが幾冊か取散してある。旧《ふる》い日記
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