とを家のものに話して聞かせなかった。末の子供は炬燵《こたつ》へ寄せて寝かしてあった。暦や錦絵を貼付《はりつ》けた古壁の側には、お房とお菊とがお手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。三吉は炬燵にあたりながら、姉妹の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おうと思った。
お房は――三吉の母に肖《に》て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。丁度牧野から子供へと言って貰って来た葡萄《ぶどう》ジャムの土産があった。それをお雪が取出した。お雪は雛《ひな》でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗《な》めさせるやら、菓子《かし》麺包《パン》につけて分けてくれるやらした。
三吉がどういう心の有様でいるか、何事《なんに》もそんなことは知らないから、お房は機嫌《きげん》よく父の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
「兎《うさぎ》、兎、そなたの耳は
どうしてそう長いぞ――
おらが母の、若い時の名物で、
笹の葉ッ子|嚥《の》んだれば、
それで耳が長いぞ」
これはお雪が幼少《おさな》い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
三吉は力を得た。その晩、牧野へ宛てて長い手紙を書いた。
幸にも、この手紙は、彼の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野は彼の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとすらしなかった。三吉は牧野の深い心づかいを感じた。自分のベストを尽すということより外は、この友達の志に酬《むく》うべきものは無い、と思った。
四月に入って、三吉は家を探しがてら一寸上京した。子供等は彼の帰りを待侘《まちわ》びて、幾度か停車場まで迎えに出た。北側の草屋根の上には未だ消残った雪が有ったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。三吉は帰って来て、東京の郊外に見つけて来た家の話をお雪にして聞かせた。一軒、植木屋の地内に往来に沿うて新築中の平屋が有った。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて行って其処《そこ》で仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思われたが、いかにも閑静な、樹木の多い周囲が気に入った。二度も足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、其処を借りることに決めて来た。こんな話をして、それから三吉は思出したばかりでも汗の流れるという風に、
「家を探して歩くほど厭《いや》な気のするものは無いネ――加《おまけ》に、途中で、ヒドく雨に打たれて……」
と言って聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが訳もなしに嬉しかったのである。
その晩、お房やお菊は寐《ね》る前に三吉の側へ来て戯れた。
「皆な温順《おとな》しくしていたかネ」と三吉が言った。「サ、二人ともそこへ並んで御覧」
二人の娘は喜びながら父の前に立った。
「いいかね。房ちゃんが一号で、菊ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
娘達は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷《すばしこ》く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃ無いよ。房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中|躍《おど》って歩いた。
「へえ、繁ちゃんも種痘《ほうそう》がつきましたに、見て下さい」
と在から奉公に来ていた下女も、そこへ末の子供を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、お繁は未だ匍《は》いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。漸く首のすわりもシッカリして来た。家の内での愛嬌者《あいきょうもの》に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
こう三吉が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。お雪は一人ずつ寝巻に着更えさせた。下女は人形でも抱くようにして、柔軟《やわらか》なお繁の頬へ自分の紅い頬を押宛てていた。
やがて三人の子供は枕を並べて眠った。
「一号、二号、三号……」
この自分から言出した串談《じょうだん》には、三吉は笑えなく成った。彼の母は、死んだものまで入れると八人も子供を産んでいる。お雪の方にはまた兄妹が十人あった。名倉の姉は今五人子持で、※[#「※」は○の中にナ」、215−7]の姉は六人子持だ。何方《どちら》を向いても子供沢山な系統から来ている……
翌日《あくるひ》、三吉は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。そろそろ彼の家では引越の仕度に取掛った。よく郊外の噂《うわさ》が出た。雨でも降れば壁が乾く
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