張ってある短《たん》冊まで引剥《ひっぺ》がして了ったんですからネ……そういう中でも、豊世の物だけは、一品だって私が手を触れさせやしません……まあ、母親さんが居なくて、反《かえ》って好かった。あれで母親さんが居ようものなら、それほどの決断には出られなかったかも知れません。田舎はそこへ行くと難有《ありがた》いもので、橋本の家の形も崩さずに遣って行かれる。薬は依然として売れてる――最早嘉助の時代でも有りませんから、店の方は若い者に任せましてネ、私は私で東京の方へ出ようと思っています。これからは私の奮発一つです」
「へえ、正太さんも東京の方へ……実は僕も今の仕事を持って、ここを引揚げる積りなんですが……」
「私の方が多分叔父さんよりは先へ出ることに成りましょう」
「随分僕も長いこと田舎で暮しました」


「お仙はどうしたかいナア」と不幸な娘のことまで委《くわ》しく聞きたがる母親を残して置いて、翌日《あくるひ》正太は叔父の許を発《た》って行った。
 そろそろお種も夫の居ない家の方へ帰る仕度を始めた。達雄が残して行った部屋――着物――寝床――お種の想像に上るものは、そういう可恐《おそろ》しいような、可懐《なつか》しいようなものばかりで有った。
「三吉さん――私もネ、今度は豊世の生家《さと》へ寄って行く積りですよ。寺島の母親さんにも御目に掛って、よく御話したら、必《きっ》と私の心地《こころもち》を汲《く》んで下さるだろうと思いますよ」
 隣室に仕事をしている弟の方へ話し掛けながら、お種は自分の行李を取出した。彼女はお雪と夏物の交換などをした。
 やがて迎の嘉助が郷里《くに》の方から出て来た。この大番頭も、急に年をとったように見えた。植物の好きなお種は、弟がある牧場の方から採って来たという谷の百合、それから城跡で見つけた黄な花の咲く野菊の根などを記念に携えて、弟の家族に別れを告げた。お種は自分の家を見るに堪《た》えないような眼付をして、供の嘉助と一緒に、帰郷の旅に上った。
 翌年《あくるとし》の三月には、いよいよ三吉もこの長く住慣れた土地を離れて、東京の方へ引移ろうと思う人であった。種々《いろいろ》な困難は彼の前に横たわっていた。一方には学校を控えていたから、思うように仕事も進捗《はかど》らなかった。全く教師を辞《や》めて、専心労作するとしても、猶《なお》一年程は要《かか》る。彼は既に三人の女の児の親である。その間、妻子を養うだけのものは是非とも用意して掛らなければ成らなかった。
 とにかく、三吉は長い仕事を持って、山を下りようと決心した。
「オイ、洋服を出しとくれ」
 とある日、三吉は妻に言付けた。三吉はある一人の友達を訪ねようとした。引越の仕度をするよりも何よりも、先《ま》ず友達の助力を得たいと思ったのである。
 寒そうな馬車の喇叭《らっぱ》が停車場寄《ステーションより》の往来の方で起った。その日は三吉と同行を約束した人も有ったが、途中の激寒を懼《おそ》れて見合せた位である。三吉は外套《がいとう》の襟《えり》で耳を包んで、心配らしい眼付をしながら家を出た。白い鼻息をフウフウいわせるような馬が、客を乗せた車を引いて、坂道を上って来た。三吉はある町の角で待合せて乗った。


 雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓《ふもと》を廻るにつれて、乗客は互に膝《ひざ》を突合せて震えた。二里ばかり乗った。馬車を下りて、それから猶《なお》山深く入る前に、三吉はある休茶屋の炉辺《ろばた》で凍えた身体《からだ》を温めずにはいられなかった。一里半ばかりの間、往来する人も稀《まれ》だった。谷々の氾濫《はんらん》した跡は真白に覆《おお》われていた。
 訪ねて行った友達は牧野と言って、辺鄙《へんぴ》な山村に住んでいた。ふとしたことから三吉はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。そこへ訪ねて行く度に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、好く整理された耕地など――それを見るのを三吉は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着かなかった。主人を始め細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で話した。この温い家庭の空気の中で、唯三吉は前途のことを思い煩《わずら》った。事情を打開けて、話してみようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、三吉は言わず仕舞に牧野の家の門を出た。そして、制《おさ》えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を帰って行った。一時間あまり乗合馬車の立場《たてば》で待ったが、そこには車夫が多勢集って話したり笑ったりしていた。思わず三吉も喪心した人のように笑った。やがて馬車が出た。沈んだ日光は寒い車の上から彼の眼に映った。林の間は黄に耀《かがや》いた。彼は眺め、かつ震えた。
 家へ帰ってからも、三吉はそう委《くわ》しいこ
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