お雪さん」とお種は勉の写真を取上げて、「この方がお福さんの旦那さんですか」
「ええ」
「三吉も、彼方《あちら》で皆さんに御目に掛って来たそうですが……やはりこの方は名倉さんの御養子の訳ですネ。商人は何処《どこ》か商人らしく撮《と》れてますこと」
 こう言ってお種は眺めた。
「菊ちゃん、そんなに写真を玩具《おもちゃ》にするんじゃ有りませんよ」
 と母に叱られても、子供は聞入れなかった。お種は針仕事を一切《ひときり》にして、前掛を払いながら起立《たちあが》った。
「さあ、房ちゃんも菊ちゃんも、伯母さんと一緒にいらっしゃい――復た御城跡の方へ行って見て来ましょう」
 お種は帯を〆《しめ》直して、二人の子供を連れて出て行った。お雪の側には、そこに寝かしてあったお繁だけ残った。部屋の障子の開いたところから、何となく秋めいた空が見える。白いちぎれちぎれの雲が風に送られて通る。
「姉さんは?」と三吉が学校から帰って来て聞いた。
「散歩がてらオバコの実を採りにいらっしゃいました――子供を連れて」
「そんな物をどうするんかネ」
「髪の薬に成さるとかッて――煎《せん》じて附けると、光沢《つや》が出るんだそうです――なんでも、伊東の方で聞いてらしったんでしょう」
 三吉は小倉の行燈袴《あんどんばかま》を脱捨てて、濡縁《ぬれえん》のところへ足を投出した。
「それはそうと、姉さんは木曾《きそ》の方へ子供を一人連れて行きたがってるんだが――どうだネ、繁ちゃんを遣《や》ることにしては」
 こんなことを夫が言出した。お雪は答えなかった。
「こう多勢じゃヤリキレない」と言って三吉はお繁の寝ている様子を眺めて、「姉さんに一人連れてって貰えば、吾儕《われわれ》の方でも大に助かるじゃないか……しきりに姉さんがそう言うんだ……」
「そんなことが出来るもんですか」とお雪は言葉に力を入れた。
 三吉は嘆息して、「姉さんだっても寂しいんだろうサ……そりゃ、お前、正太さんには子供が無いから、あるいは長く傍に置きたいと言うかも知れないし、くれろと言うかも知れない。その時はその時サ。当分姉さんが繁ちゃんを借りて行って、育てて見たいと言うんだ。どうだネ、お前は――俺《おれ》は一人位貸して遣っても可いと思うんだが」
「貴方は遣る気でも、私は遣りません――そんなことが出来るか出来ないか考えてみて下さい――」
「預けたって、お前、別に心配なことは無いぜ。姉さんのことだから必《きっ》と大切にしてくれる」
「姉さんが何と仰《おっしゃ》っても――繁ちゃんは私の児です――」
 姉が末の子供を郷里の方へ連れて行きたいという話は、三吉の方にあった。お雪は聞入れようともしなかった。


 秋も深く成って、三吉の家ではめずらしく訪ねて来た正太を迎えた。正太は一寸上京した帰りがけに、汽車の順路を山の上の方へ取って、一夜を叔父の寓居《すまい》で送ろうとして立寄ったのであった。
 奥の部屋では客と主人の混《まざ》り合った笑声が起った。お種は台所の方へ行ったり、吾子《わがこ》の側へ行ったりして、一つ処に沈着《おちつ》いていられないほど元気づいた。
「正太や――お前は母親《おっか》さんを連れてってくれられる人かや」
「いや、今度は途中で用達《ようたし》の都合も有りますからネ――母親さんの御迎には、いずれ近いうちに嘉助をよこす積りです」
「そんなら、それで可いが、一寸お前の都合を聞いて見たのさ。何も今度に限ったことは無いで……」
 三吉を前に置いて、橋本親子はこんな言葉を換《かわ》した。漸《ようや》くお種は帰郷の日が近づいたことを知った。その喜悦《よろこび》を持って、復たお雪の方へ行った。
 三吉と正太とは久し振で話した。この二人が木曾以来一度一緒に成ったのは、達雄の家出をしたという後であった。顔を合せる度に、二人は種々《さまざま》な感に打たれた。でも、正太は元気で、父の失敗を双肩に荷《にな》おうとする程の意気込を見せていた。
「正太さん。姉さんも余程|沈着《おちつ》いて来ましたろう。僕の家へ来たばかりの時分はどうも未だ調子が本当で無かった――僕が姉さんに、郷里《くに》へ帰ったら草鞋《わらじ》でも穿《は》いて、薬を売りに御出掛なさいなんて、そんな串談《じょうだん》を言ってるところです」
「そういう気分に成れると可《い》いんですけれど……然《しか》し、最早連れて帰っても大丈夫でしょう。母親さんが家へ行って見たら、定めし驚くことでしょうナア。なにしろ、私も手の着けようが有りませんから、一切を挙げ皆さんに宜敷《よろしく》頼む、持って行きたい物は持っておいでなさい――何もかもそこへ投出して了ったんです」
「その決心は容易でなかったろうネ」
「ところが、叔父さん、その為に漸く家の整理がつきました。そりゃあもう、襖《ふすま》に
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