「妙なものだテ」は弟を笑わせた。その前置を言出すと、必《きっ》とお種は夫の噂を始めるから。
「旦那も来年は五十ですよ。その年に成っても、未だそんな気でいるとは。実に、ナサケないじゃ有りませんか……男というものは可恐《おそろ》しいものですネ……私が旦那の御酒に対手《あいて》でもして、歌の一つも歌うような女だったら好いのかも知れないけれど――三吉さん、時々私はそんな風に思うことも有りますよ」
苦笑《にがわらい》したお種の頬《ほお》には、涙が流れて来た。その時彼女は達雄が若い時に秀才と謳《うた》われたことや、国を出て夫が遊学する間彼女は家を預ったことや、その頃から最早夫の病気の始まったことなどを弟に語り聞せた。
「ある時なぞも――それは旦那が東京を引揚げてからのことですよ――復た病気が起ったと思いましたから、私が旦那の気を引いて見ました。『むむ、あの女か――あんな女は仕方が無い』なんて酷《ひど》く譏《けな》すじゃ有りませんか。どうでしょう、三吉さん、最早旦那が関係していたんですよ。女は旦那の種を宿しました。その時、私もネ、寧《いっ》そその児を引取って自分の子にして育てようかしら、と思ったり、ある時は又、みすみす私が傍に附いていながら、そんな女に子供まで出来たと言われては、世間へ恥かしい、いかに言ってもナサケないことだ、と考えたりしたんです。間もなく女は旦那の児を産落しました。月不足《つきたらず》で加《おまけ》に乳が無かったもんですから、満《まる》二月とはその児も生きていなかったそうですよ――しかし、旦那も正直な人サ――それは気分が優《やさし》いなんて――自分が悪かったと思うと、私の前へ手を突いて平謝《ひらあやま》りに謝る。私は腹が立つどころか、それを見るともう気の毒に成ってサ……ですから、今度だっても旦那が思い直して下さりさえすれば……ええええ、私は何処《どこ》までも旦那を信じているんですよ。豊世とも話したことですがネ。私達の誠意《まごころ》が届いたら、必《きっ》と阿父《おとっ》さんは帰って来て下さるだろうよッて……」
「伯母さん、お化粧《つくり》するの?」とお房は伯母の側へ来て覗《のぞ》いた。
「伯母さんだって、お化粧するわい――女で、お前さん、お化粧しないような者があらすか」
お雪や子供と一緒に町の湯から帰って来たお種は、自分の柳行李《やなぎごうり》の置いてある部屋へ入って、身じまいする道具を展《ひろ》げた。そこは以前書生の居た静かな部屋で、どうかすると三吉が仕事を持込むこともある。家中で一番引隠れた場処である。お種が大事にして旅へ持って来た鏡は、可成《かなり》大きな、厚手の玻璃《ガラス》であった。それに対《むか》って、サッパリと汗不知《あせしらず》でも附けようとすると、往時《むかし》小泉の老祖母《おばあさん》が六十余に成るまで身だしなみを忘れずに、毎日薄化粧したことなどが、昔風の婦人《おんな》の手本としてお種の胸に浮んだ。年のいかない芸者|風情《ふぜい》に大切な夫を奪去られたか……そんな遣瀬《やるせ》ないような心も起った。残酷なほど正直な鏡の中には、最早|凋落《ちょうらく》し尽くした女が映っていた。肉が衰えては、節操《みさお》も無意味で有るかのように……
頬の紅いお房の笑顔が、伯母の背後《うしろ》から、鏡の中へ入って来た。
「房ちゃん、お前さんにもお化粧《つくり》して進《あ》げましょう――オオ、オオ、お湯《ぶう》に入って好い色に成った」
と言われて、お房は日に焼けた子供らしい顔を伯母の方へ突出した。
やがてお種はお房を連れて、お雪の居る方へ行った。お雪も自分で束髪を直しているところであった。
「母さん」とお房は真白に塗られた頬を寄せて見せる。
「へえ、母さん、見てやって下さい――こんなに奇麗に成りましたよ」とお種が笑った。
「まあ……」とお雪も笑わずにいられなかった。「房ちゃんは色が黒いから、真実《ほんと》に可笑《おか》しい」
暫時《しばらく》、お種はそこに立って、お雪の方を眺めていたが、終《しまい》に堪え切れなくなったという風で、こう言出した。
「お雪さん、そんな田舎臭い束髪を……どれ、貸して見さっせ……私は豊世のを見て来たで、一つ東京風に結ってみて進《あ》げるに」
お房は大きな口を開きながら、家の中を歌って歩いた。
南の障子に近いところは、お雪が針仕事を展げる場所である。お種はお雪と相対《さしむかい》に坐って、余念もなく秋の仕度の手伝いをした。障子の側は明るくて、物を解いたり縫ったりするに好かった。
「菊ちゃん、伯母さんにその写真を見せとくれ――伯母さんは未だよく拝見しないのが有った」
お種は子供が取出した幾枚かの写真を受取った。お雪が生家《さと》の方の人達の面影《おもかげ》は順々に出て来た。
「
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