ちょうちん》を手にして、先《ま》ず家へ入った。つづいて伯母も入って、そこへお菊を卸した。
 喜び騒ぐ二人の子供から、お雪は提燈を受取って、火を点《とぼ》した。それを各自《めいめい》に持たせた。
「菊ちゃん、そんなに振ってはいけませんよ――これは蝋燭《ろうそく》がすこし長過ぎる」とお種が言った。
「紅《あか》い紅い」とお雪はお繁を抱いて見せた。
「どれ、父さんの許へ行って見せて来ましょう」
 こう言いながら、お種は子供を連れて、奥の方へ行った。
「父さん、お提燈」
 とお房がさしつけて見せる。丁度三吉も一服やっているところであった。
「へえ、好いのを買って頂いたネ」
 と父に言われて、子供は彼方是方《あちこち》と紅い火を持って廻った。
「私もここで一服頂かずか」とお種は三吉の前に坐った。「こういう子供の騒ぐ中で、よくそれでも仕事が出来たものだ……真実《ほんと》に、子供が有ると無いじゃ家の内が大違いだ……」
 何かにつけて、お種の話は夫の噂《うわさ》に落ちて行った。何故、達雄が妻子を捨てたかという疑問は、絶えず彼女の胸を離れなかった。
「妙なものだテ」とお種は思出したように、「旦那が未だ郷里《くに》の方に居る時分――まあ、唐突《だしぬけ》と言っても唐突に、ふいとこんなことを言出した。お種、お前を捨てるようなことは決して無いで、安心しておれやッて。それが、お前さん、夢にも私はそんなことを思ったことの無い時だぞや。それを聞いた時は、私はびくッとした……」
「姉さん、そういう時分に家の方のことが幾分《いくら》か解りそうなものでしたネ」
「解るものかよ。朝から晩まで、御客、御客で。それ酒を出せ、肴《さかな》を出せ、出さなければ、また旦那が怒るんだもの。もうお前さん、ゴテゴテしていて、そんなことを聞く暇もあらすか」
「私が姉さんの許へ行った時分は、達雄さんも勉強でしたがナア」
「あの調子で行ってくれると、誠に好かった。直に物に飽きるから困る。飽きが来ると、復た病気が起る――旦那の癖なんですからネ」
「それはそうと、達雄さんも今どうしていましょう」
「どうしていることやら……」
「やはりその女と一緒でしょうか」
「どうせ、お前さん長持ちがせすか――御金が無くなって御覧なさい。何時《いつ》までそんな女が旦那々々と立てて置くもんですかね……今度は自分が捨てられる番だ……そりゃあもう、眼に見えてる……」
「先ずそういうことに成って行きそうですナ」
「そこですよ、私が心配して遣《や》るのは。旦那もネ、橋本の家で生れた人ですから、何卒《どうか》して私は……あの家で死なして遣りたくてサ」
 喧嘩《けんか》でもしたか、子供が泣出した。お種は三吉の傍を離れて、子供の方へ行った。


 幼い子供達は間もなくお種に取って、離れがたいほど可愛いものと成った。肩へ捉《つか》まらせるやら、萎《しな》びた乳房を弄《なぶ》らせるやら、そんな風にして付纏《つきまと》われるうちにも、何となくお種は女らしい満足を感じた。夫に捨てられた悲哀《かなしみ》も、いくらか慰められて行った。
 炉辺に近い食卓の前には、お房とお菊とが並んで坐った。伯母は二人に麦香煎《むぎこがし》を宛行《あてが》った。お房は附木《つけぎ》で甘そうに嘗《な》めたが妹の方はどうかすると茶椀《ちゃわん》を傾《かし》げた。
「菊ちゃん、お出し」と言って、お種は妹娘《いもうと》の分だけ湯に溶かして、「どれ、着物《おべべ》がババく成ると不可《いけな》いから、伯母さんが養って進《あ》げる」
 子供にアーンと口を開かせる積りで、思わず伯母は自分の口を開いた。
「ああ、オイシかった」とお房は香煎《こがし》の附いた口端を舐め廻した。
「房ちゃんも菊ちゃんも頂いて了ったら、すこし裏の方へ行って遊んで来るんですよ。母さんが何していらっしゃるか、見てお出なさい――母さんは御洗濯かナ」
「伯母さん、復た遊びましょう」とお房が言った。
「ええ、後で」とお種は笑って見せた。「伯母さんは父さんの許《とこ》で御話して来るで――」
 子供は出て行った。
 三吉はその年の春頃から長い骨の折れる仕事を思立っていた。学校の余暇には、裏の畠へも出ないで、机に向っていた。好きな野菜も、稀《たま》に学校の小使が鍬《くわ》を担《かつ》いで見廻りに来るに任せてある。
「三吉さん、御仕事ですか」とお種は煙草入を持って、奥の部屋へ行った。彼女は弟の仕事の邪魔をしても気の毒だという様子をした。
「まあ、御話しなさい」
 こう答えて、弟は姉の方へ向いた。丁度お種も女の役の済むという年頃で、多羞《はずか》しい娘の時に差して来た潮が最早身体から引去りつつある。彼女は若い時のような忍耐力《こらえじょう》が無くなった。心細くばかりあった。
「妙なものだテ」とお種が言出した。この
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