まいとか、天気に成れば何程工事が進んだろうとか、毎日言い合った。夫婦の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行く気がした。
夫婦は引越の仕度にいそがしかった。お雪は自分が何を着て、子供には何を着せて行こう、といろいろに気を揉《も》んだ。
「房ちゃん、いらっしゃい。着物《おべべ》を着てみましょう――温順《おとな》しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」
こう娘を呼んで言って、ヨソイキの着物を取出してみた。それは袖口を括《くく》って、お房の好きなリボンで結んである。お菊の方には、黄八丈の着物を着せて行くことにした。
「菊ちゃんは色が白いから、何を着ても似合う」
と皆なが言合った。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。
「いよいよ御別れでごわすかナア」と学校の小使も入口の庭の処へ来て言った。
「何物《なんに》も君には置いて行くようなものが無いが、その鍬《くわ》を進《あ》げようと思って、とっといた」と三吉は自分が使用《つか》った鍬の置いてある方を指して見せた。
「どうも済みやせん……へえ、それじゃ御貰い申して参りやすかナア。鍬なんつものは、これで孫子の代までも有りやすよ」
小使は百姓らしい大きな手を揉んで、やがて庭の隅《すみ》に立掛けてある鍬を提《さ》げて出て行った。
出発の日は、朝早く暖い雨が通過ぎた。長い間溶けずにいた雪の圧力と、垂下った氷柱《つらら》の目方とで、ところどころ壊《こわ》れかかった北側の草屋根の軒からは、隣家《となり》の方から壁伝いに匍《は》って来る煙が泄《も》れた。丁度、庭も花の真盛りであった。
隣家のおばさんは炊立《たきたて》の飯に香の物を添えて裏口から運んで来てくれた。三吉夫婦は、子供等と一緒に汚《よご》れた畳の上に坐って、この長く住慣れた家で朝飯を済ました。そのうちに日が映《あた》って来た。お房やお菊は近所の娘達に連れられて、先《ま》ず停車場を指して出掛けた。
道普請《みちぶしん》の為に高く土を盛上げた停車場前には、日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのが集って、名残《なごり》を惜んだ。そこまで夫婦を追って来て、餞別《せんべつ》のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなども有った。三吉の同僚に、親にしても好いような年配の理学士が有ったが、この人は花の束を持って来て、夫婦の乗った汽車の窓へ差入れた。その日は牧野も洋服姿でやって来て、それとなく見送っていた。
「困る。困る」
とお菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、周章《あわ》てて父親へしがみ着いた。
ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢《こずえ》、石垣の多い桑畑などは次第に汽車の窓から消えた……
汽車が上州の平野へ下りた頃、三吉は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲に隠れてよく見えなかった。
乗換えてから、客が多かった。三吉は立っていなければ成らない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処も無かった。お房とお菊とは、かわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳を宛行《あてが》われても、揺《ゆす》られても、泣止《なきや》まなかった。お雪は持余《もてあま》した。仕方なしにお繁を負《おぶ》って、窓の側で起《た》ったり坐ったりした。
午後の四時頃に、親子五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければ成らないというので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、親達に連れられて始めての道を歩いたが、お繁の方は酷《ひど》く旅に萎《しお》れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま、気抜のしたような眼付をしていた。時々お雪は立止って、めずらしそうに其処是処《そこここ》の光景《さま》を眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
郊外は開け始める頃であった。三吉が妻子を連れて移ろうとする家の板葺《いたぶき》屋根は新緑の間に光って見えて来た。
底本:「家(上)」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年5月10日発行
1968(昭和43)年6月30日17刷改版
1998(平成10)年9月5日51刷
※底本は、35ページ9行目で鳳凰の「凰」の「白」を「百」と作っています。作字上の誤りと判断し、「凰」をあてました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のまま
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