た。
「姉さんは委《くわ》しいことを知っていましょうか」
「これがまた難物だテ。気でも違えられた日には大事《おおごと》だからネ。まあソロソロと耳に入れた。その為にああして長く伊東に置いて、なるべく是方《こっち》の話は聞かせないようにしたよ」
その時|下婢《おんな》が夕飯の膳を運んで来た。三吉は下婢を返して、兄弟ぎりで話しながら食うことにした。
「どれ御馳走に成ろうか」と森彦は性急な調子で言って、箸《はし》を取上げた。「兄貴の家にも弱ったよ。ホラ、お前の許《とこ》のお雪さんが先頃|拝跪《はみ》に来て、当分仕送りは出来ないッて断ったもんだから、俺の方でどうにかしてやらなくちゃ成らない……しかし、お前も御苦労だった。お互に長い間のことだから。加《おまけ》に、各自《めいめい》家族を控えてると来てる」
「実際、私の方にも種々な事情が有りましてネ。学校の貧乏なところへもって来て、町や郡からの輔助は削《けず》られる、それでも教員の数は増《ふや》さんけりゃ手が足りない。私も見かねて、俸給を割《さ》くことにしました……まあ、当分輔助は覚束《おぼつか》ないものと思って下さい……そのかわり橋本の姉さんは私の方へ引取りましょう。今度その積りで出て来ました」
「アア、そうか。そうして貰えると、姉さんの為にも好かろう」
こんな話をして、やがて食う物は食い、喋舌《しゃべ》ることは喋舌ったという風に、森彦は脱いで置いた羽織を引掛けた。
「最早《もう》姉さんも見えそうなものだ」と三吉が言った。「夕飯でも済ましてから来ると見えるナ」
森彦は羽織の紐《ひも》を結びながら、「今夜は俺の許へ話に来る人が有る。一寸用がある。これで俺は失礼します。それじゃ御馳走に成りました」
「まあ、可いじゃ有りませんか。もう少し話して行ったら」
「いや、復《ま》た逢えたら逢おう。名倉さんへも、皆さんに宜敷《よろしく》」
紳士風の夏帽子を手に持って出て行く森彦を送って、間もなく三吉は姉を迎えた。
お種は豊世を連れて三吉に逢いに来た。三吉とお種とは故郷の方で別れてから以来《このかた》、一度汽車の窓で顔を合せたぎりである。蔭ながら三吉も姉のことでは心配していたので、こうして逢って見るまでは安心が出来なかった。
三吉と豊世の間には初対面の挨拶《あいさつ》などが交換《とりかわ》された。
「もうすこし早く来ると、森彦さんとも一緒に成れた」と三吉が姉に言った。
「そうも思いましたがネ、あんまり多勢で押掛けても気の毒だと思って――」
「叔父《おじ》さん、昨晩は失礼いたしました」
と豊世は「叔父さん」を珍しそうに言う。
「私達は今、面白い二階に居ますよ」とお種は女持の煙草入《たばこいれ》を取出しながら、「お前さんなぞが上って見ようものなら、驚く位だ。一つ部屋に、応接間もあれば、ランプ部屋もあれば、お勝手もある……蚊が出て困ると言って、実の家から蚊帳を借りたは好かったが、釣ってみると部屋一ぱいサ。環《かん》を釘《くぎ》へ掛けても、まだダクンダクンしてる……笑ったにも何にも……」
「そういう思いもしてみるが好う御座んす――」と三吉が言った。
お種と豊世とは顔を見合せた。やがてお種は一服やって、「私もネ、長いこと伊東の方に居ました。森彦の親切で、すっかり保養も出来たで……是頃《こないだ》お雪さんから手紙を下すったように、もしお前さんの許《とこ》で私を呼んでくれるなら、行って子供の世話でも何でもしてやるわい」
「まあ、暫時《しばらく》私の方へ来ていて御覧なさい――姉さんには田舎《いなか》の方が静かで好いかも知れません――そのかわり、何にも御馳走は有りませんぜ」
「御馳走なぞが要《い》らずか。この節では、お前さん、一週間に一度ずつ森彦の旅舎《やどや》へ行って、新聞を読んで、お風呂に入れて貰って、夕飯を振舞って貰っては帰って来る。それより外に何にも楽みが無い――私は今、そういう日を送ってる」
豊世は姑から細い銀の煙管《きせる》を借りて、前曲《まえこご》みに煙草を燻《ふか》してみながら、話を聞いている。
「伊東に居た時分も、お前さん、他《よそ》の奥様なぞが橋本さんは御羨《おうらやま》しい御身分だ、こうして毎日遊んでいらしっても、御国からは御金を送って来るなんて――他《ひと》は何事《なんに》も知りませんからネ……」
こういうお種の調子には、存外|沈着《おちつ》いたところが有るので、三吉も心配した程では無いと思って来た。弟は話を進めようとしたが、それを言う前に、自分の方のことを持出した。学校の暑中休暇を機会として、名倉の家まで行く積りだと話した。
「先頃お雪さんが出ていらしった節は、実の家の方で御一緒に成りました」とお種が言った。
「私はネ、叔父さん」と豊世は引取って、
「このお宿でお雪叔母さんに
前へ
次へ
全74ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング