帰りました。もう旦那さんが有ります」
「早いものだナ。若い人のズンズン成人《しとな》るには魂消《たまげ》ちまう――兄貴の家の娘なぞも大きく成った――そう言えば、俺《おれ》の許《とこ》のやつも、来年あたりは東京の学校へ入れてやらなきゃ成るまいテ」
水色のリボンで髪を束ねた若々しいお愛の容子《ようす》を眺めながら、森彦は国の方に居る自分の娘達のことを思出していた。
「お愛さん、貴方はもう御帰りなさい。保証人の方へ廻って、認印《みとめ》を貰って行ったら可いでしょう」
と三吉に言われた、お愛は娘らしく顔を紅めて、学校の方へ帰る仕度をした。
間もなく三吉は兄と二人ぎりに成った。森彦は夏羽織を脱いで、窓に近く胡坐《あぐら》をかいた。達雄や実の噂《うわさ》が始まった。
「いや、エライことに成って来た。四方八方に火が点《つ》いたから驚く」と森彦が言出した。
三吉も膝《ひざ》を進めて、「しかし、橋本の方なぞは、一朝一夕に起った出来事じゃないんでしょうネ。私が橋本へ行ってた時分――あの頃のことを思うと、ナカナカ達雄さんも好く行《や》っていましたッけがナア――非常な奮発で。それともあの頃が一番好い時代だったのかナア」
「なにしろ、お前、正太の婚礼に千五百両も掛けたとサ。そういうヤリカタで押して行ったんだ」
「姉さんなぞが又、どうしてそこへ気が着かずにいたものでしょう」
「そりゃ、心配は無論仕ていたろうサ。細君が帯を欲しいと言えば帯を買ってくれる、着物が欲しいと言えば着物を買ってくれる――亭主に弱点《よわみ》が有るからそういうことに成る。姉さんの方ではそうも思わないからネ。まあ、心配はしても、それほどとは考えていなかったろうサ」
好い加減にこういう話を切上げて、三吉はこの兄の直接関係したことを聞いてみようとした。達雄のことに就《つ》いて、尋ねたいことは種々あった。先《ま》ず夕飯の仕度を宿へ頼んだ。
この町中にある旅舎《やどや》の二階からは、土蔵の壁、家の屋根、樹木の梢《こずえ》などしか見えなかった。しかし割合に静かな座敷で、兄弟が話をするには好かった。
「どうして達雄さんのような温厚《おとな》しい人に、あんな思い切ったことが言えたものかしらん」こう森彦が言出した。「そりゃお前、Mさんと俺とでわざわざ名古屋まで出張して、達雄さんの反省を促しに行ったことが有るサ」
「よくまた名古屋に居ることが分りましたネ」と三吉は茶を入れ替えて兄に勧めながら言った。
「段々|詮索《せんさく》してみると、達雄さんが家を捨てて出るという時に、途中である銀行から金を引出して、それで芸者を身受けして連れて行った。それが新橋の方に居た少婦《おんな》さ……その時Mさんが、どうしても橋本は名古屋に居るに相違ない。俺にも行け、一緒に探せという訳で、それから名古屋に宿をとってみたが、さあ分らない。宿の内儀《かみさん》はやはりそれ者《しゃ》の果だ。仕方がないから、内儀に事情を話して、お前さんが探出したら礼をすると言ったところが、内儀は内儀だけに、考えた。なんでもそういう旦那には、なるべく早く金を費《つか》わして了うというのが、あの社会の法だとサ。では、十円出して下さい、私も身体が悪いから保養を兼ねて心当りの温泉へ行って見て来る、名古屋に二人が居るものなら必ずその温泉へ泊りに来る、こう内儀が言って探しに行ってくれた。果して一週間ばかり経つと、直ぐ来いという電報だ。そこで俺が飛んで行った。まだ蚊帳《かや》が釣ってあって、一方に内儀、一方にMさん、とこう達雄さんを逃がさないように附いて寝ていた。達雄さんが俺の方を向いたその時の眼付というものは……」
森彦は何か鋭く自分の眼でも打ったという手付をして見せて、言葉を続けた。
「それから、Mさんと俺とで、懇々説いてみた。実に平素《ふだん》の達雄さんには言えないようなことを言ったよ――自分は何もかも捨てたものだ――妻があるとも思わんし、子があるとも思わん――後はどう成っても関《かま》わないッて。最早《もう》仕方無い。その言葉を聞いて、吾儕《われわれ》は別れた」
「エライ発心《ほっしん》の仕方をしたものだ。坊主にでも成ろうというところを、少婦《おんな》を連れて出て行くなんて」
と三吉は言ってみたが、曾《かつ》て橋本の家の土蔵の二階で旧《ふる》い日記を読んだことのある彼には、この洒落《しゃらく》と放縦とで無理に彩色《いろどり》してみせたような達雄の家出を想像し得るように思った。いかに達雄が絶望し、狼狽《ろうばい》したかは、三吉に悲惨な感《かんじ》を与えた。
「あの時|吾儕《われわれ》の会見したことは、ちゃんと書面に製《こしら》えて、一通は記念の為に正太へ送ったし、一通は俺の許《とこ》に保存してある」こう森彦は物のキマリでもつけたように言っ
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