えた。旅の手荷物もそこそこに取纏《とりまと》めた。
 船までは、林の隠居や細君が一緒に見送りたいと言出した。お種はこの人達に励まされながら豊世と連立って、宿を出た。まだ朝のことで、湯の流れる川について、古風な町々を通過ぎると、やがて国府津通いの汽船の形が眼に見えるところへ出て来た。船頭は艀《はしけ》の用意をしていた。
 最早節句の栄螺《さざえ》を積んだ船が下田の方から通って来る時節である。遠い山国とはまるで気候が違っていた。お種は旅で伊豆の春に逢うかと思うと、夫に別れてから以来の事を今更のように考えてみて、海岸の砂の上へ倒れかかりそうな眩暈《めまい》心地《ごこち》に成った。
「母親さん、母親さん、すっかり御病気を癒《なお》して来て下さいよ。私は東京の方で御待ち申しますよ……真実《ほんと》に、母親さんの側に居て進《あ》げたいんですけれど」
 と言って、嫁は艀の方へ急いだ。
 お種は林の隠居、細君と共に、豊世を乗せた汽船の方を望みながら立っていた。別離《わかれ》を告げて出て行くような汽笛の音は港の空に高く響き渡った。お種の眼前《めのまえ》には、青い、明るい海だけ残った。


 宿へ戻って、復《ま》たお種は自分一人を部屋の内に見出《みいだ》した。竹翁の昔より続いた橋本の家が一夜のうちに基礎《どだい》からして動揺《ぐらつ》いて来たことや、子がそれを壊《こわ》さずに親が壊そうとしたことや、何時の間にか自分までこの世に最も頼りのすくない女の仲間入をしかけていることなどは、全くお種の思いもよらないことばかりで有った。
 豊世は行って了った。午後に、お種は折れ曲った階段を降りて、湯槽《ゆぶね》の中へ疲れた身《からだ》を投入れた。溢《あふ》れ流れる温泉、朦朧《もうろう》とした湯気、玻璃窓《ガラスまど》から射し入る光――周囲《あたり》は静かなもので、他に一人の浴客も居なかった。お種は槽《おけ》の縁へ頸窩《ぼんのくぼ》のところを押付けて、萎《しな》びた乳房を温めながら、一時《いっとき》死んだように成っていた。
 窓の外では、温暖《あたたか》い雨の降る音がして来た。その音は遠い往時《むかし》へお種の心を連れて行った。お種がまだ若くて、自分の生家《さと》の方に居た娘の頃――丁度橋本から縁談のあった当時――あの頃は、父が居た、母が居た、老祖母《おばあさん》が居た。この小泉へ嫁《かたづ》いて来た老祖母の生家の方でも、お種を欲しいということで、折角好ましく思った橋本の縁談も破れるばかりに成ったことが有った。それを破ろうとした人が老祖母だ。母は老祖母への義理を思って、すでに橋本の方を断りかけた。もしあの時《とき》……お種が自害して果てる程の決心を起さなかったら、あるいは達雄と夫婦に成れなかったかも知れない……
 思いあまって我と我身を傷《きずつ》けようとした娘らしさ、母に見つかって救われた当時の光景《さま》、それからそれへとお種の胸に浮んで来た。
 これ程の思をして橋本へ嫁いて来たお種である。その志は、正太を腹《おなか》に持ち、お仙を腹に持った後までも、変らない積であった。人には言えない彼女の長い病気――実はそれも夫の放蕩《ほうとう》の結果であった。彼女は身を食《くわ》れる程の苦痛にも耐えた――夫を愛した――
 ここまで思い続けると、お種は頭脳《あたま》の内部《なか》が錯乱して来て、終《しまい》には何にも考えることが出来なかった。
「ああ、こんなことを思うだけ、私は足りないんだ……私が側に居ないではどんなにか旦那も不自由を成さるだろう……」
 とお種は、濡《ぬ》れた身《からだ》を拭《ふ》く時に、思い直した。
 湯から上って、着物を着ようとすると、そこに大きな姿見がある。思わずお種はその前に立った。湯気で曇った玻璃《ガラス》の面を拭いてみると、狂死した父そのままの蒼《あお》ざめた姿が映っていた。


「真実《ほんと》に、橋本さんは御羨《おうらやま》しい御身分ですねえ――御国の方からは御金を取寄せて、こうしていくらでも遊んでいらっしゃられるなんて」
 すこし長く居る女の湯治客の中には、お種に向って、こんなことを言う人も有った。お種は返事の仕ようが無かった。
「ええ……私のようにノンキな者は有りませんよ」
 お種は自分の部屋へ入っては声を呑《の》んだ。
 林の家族はやがて東京の方へ引揚げて行った。お種の話相手に成って慰めたり励ましたりした隠居も最早居なかった。この温泉場を発《た》って行く人達を見送るにつけても、お種はせめて東京まで出て、嫁と一緒に成りたいと願ったが、三月に入っても未だ許されなかった。沈着《おちつ》け、沈着けという意味の手紙ばかり諸方から受取った。
 国の方からは送金も絶え勝に成った。そのかわり東京の森彦から見舞として金を送って来た。この弟の勧めで、お
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