さんはキサクな、面白い方ですから……私共の祖母さんを御覧なさいな」
 折れ曲った長い廊下の向には、林の家族の借りている二間ばかりの部屋が見える。障子の開いたところから、動く烏帽子《えぼし》、頭巾《ずきん》が見える。


 仮装した女の万歳の一組がそこへ出来上った。お種は林の隠居の手を引きながら、嫁達の立っている前を通過ぎた。
 その時、お種は心の中で、
「面白|可笑《おか》しくして遊ばせるような婦女《おんな》でなければ、旦那衆の気には入らないのかしらん……ナニ、笑わせようと思えば私だって笑わせられる」
 こう自分で自分に言ってみた。彼女は余程トボケた積りでいた。嫁が心配していようなどとは思いも寄らなかった。
 盛んな喝采が起った。浴客はいずれもこの初春らしい趣向と、年をとった人達の戯《たわむれ》とを狂喜して迎えた。豊世は気まりが悪いような、困って了ったような顔付をして、何を姑が為《す》るかと心配しながら立っていた。林の細君も笑いながら眺めた。
 林の隠居は、こんな事をしたことの無い、温柔《おとな》しい老婦《としより》で、多勢の前へ出ると最早下を向いて了った。その側には、お種が折角の興をさまさせまいとして、何か独りで万歳の祝いそうなことを真似《まね》て言った。
「ホイ――ポン――ポン――」
 お種は鼓を打つ手真似をしながら、モジモジして震えている太夫の周囲《まわり》を廻って歩いた。
 豊世は立って眺めながら、
「まあ、母親さんは……どうしてあんなことを覚えていらしったんでしょう……何時《いつ》、何処《どこ》で覚えたんでしょう」
「祖母さん――」と林の細君は隠居のことを言った。
「あんなに、喋舌《しゃべ》って、喋舌って、喋舌りからかいて――」と豊世は思わず国訛《くになま》りを出した。
「奥さん、吾家《うち》の母親さんをああして出して置いても可いでしょうか。私はもう困って了いますわ」
「そうネ。橋本さんは少しハシャギ過ぎますネ」
 こんな話をしているうちに、お種の方では目出度く祝い納めて、やがて隠居と一緒に成って笑った。隠居は烏帽子を擁《かか》えたまま自分の部屋の方へ逃げて行った。お種もその後を追った。
 部屋へ戻ってからも、お種は自分で制《おさ》えることの出来ないほど興奮していた。豊世は姑の背後《うしろ》へ廻って、何よりも先ず羽織や袴を脱がせた。
「母親さん、母親さん、すこし気を沈着《おちつ》けて下さいよ……」こう豊世は慰め顔に言った。
 お種は笑って、「なにも、そんなに心配することは無い。母親さんは、お前、皆さんと遊ぶところだぞや。そんなことを言う手間で、褒《ほ》めてくれよ」
 豊世は何とも言ってみようが無かった。過度の心痛から、姑がこんな精神《こころ》の調子に成るのでは有るまいか、と考えた時は哀《かな》しかった。
 夕方まで、お種は庭に出て、浴客を相手に物を言い続けた。その晩は、親子とも碌《ろく》に眠られなかった。この反動と疲労とが来て、姑が沈み考えるように成るまでは、豊世も安心しなかった。


 何時まで豊世も姑と一緒にいられる場合では無かった。豊世は豊世で早く東京へ出て独立の出来ることを考えなければ成らないと思っていた。旧い静かな家に住み慣れたお種には、この親子別れ別れに成るということが心細くて、嫁を手離して遣《や》りたくなかった。
「豊世――お前は私のことばかり心配なように言うが、自分のことも少許《ちと》考えてみるが可い――そうまたお前のように周章《あわ》てることは無いぞや」
 とお種は嫁に向って言ってみた。
 お種の考えでは、夫の行方に就《つ》いて、忰《せがれ》夫婦の言うことに何処か判然《はっきり》しないところがある。どうも隠しているらしく思われるところが有る。もし嫁が聞知っているものとすれば、何とか言い賺《すか》して、夫の行方を突留めたい。こう思った。お種は、もうすこしもうすこしと、伊東に嫁を引留めて置きたくてならなかった。
「では、母親さん、こういうことにしましょう。私にもどうして可いか解りませんからネ、森彦叔父さんに一つ指図《さしず》して頂きましょう……森彦叔父さんが居た方が可いと仰ったら、居ましょう」
 豊世はこんな風に言出した。
 森彦からは返事が来た。それには豊世の願った通りのことが書いてあった。豊世は早く上京して前途の方針を定めよとあるし、姉は今しばらく伊東で静養するように、そのうちには自分も訪ねて行くとしてあった。
 二月の末に成って、漸く豊世は姑の側を離れて行くことに決めた。
「もうすこし、お前に居て貰いたいよ。私独りに成って御覧、どんなに心細いか知れない」とお種は萎《しお》れた。
「ええ、私もこうして居たいんですけれど……居られるものなら、一日でも余計……」
 こう言いながら、嫁はサッサと着物を着更
前へ 次へ
全74ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング