とはなるべく両方で避けよう避けようとした。
 お種は独り横に成った。故郷の家が胸に浮んだ。机がある、洋燈《ランプ》が置いてある、夫はしきりと手紙を書いている……それは前の年のある冬の夜のことで、どうも夫の様子が変に思われたから、一時頃までお種は寝た振をしていたことがあった。やがて夫が手紙を書き終った頃に、むっくと起きて、是非それを読ませよと迫った。未だそんなものを書く気でいるとは、読ませなければ豊世を呼ぶとまで言った。その時、夫がこの手紙だけは許してくれ、そのかわり女のことは思い切る、とお種に誓うように言った……その後、女は東京へ出たとやらで、どうかすると手紙の入った小包が届いた。夫は送金を続けていた……
 お種の考えることは、この年の若い、親とも言いたいような自分の夫に媚《こ》びる歌妓《うたひめ》のことに落ちて行った。同時に、国府津の海岸で別れたぎり、年の暮に成るまで待っても夫から一回の便りも無いことを思ってみた。
 到頭、お種は豊世と二人で、伊東に年をとった。温泉宿の二階で、林の家族と一緒に、※[#「※」は「魚へん+單」、第3水準1−94−52、168−4]《ごまめ》、数の子、乾栗《かちぐり》、それから膳《ぜん》に上る数々のもので、屠蘇《とそ》を祝った。年越の晩には、女髪結が遅く部屋々々を廻った。お種もめずらしく、豊世の後で髪を結わせた。姑の髷《まげ》がいつになく大きいので、それを見た豊世は奇異な思に打たれた。
 お種はその晩碌に眠らなかった。夜の明けないうちに起きて、サッパリと身じまいした。
「まあ、母親《おっか》さんは白粉《おしろい》などをおつけなさるんですか」と豊世も臥床《とこ》を離れて来て言った。
「私だって、つけなくってサ」とお種は興奮したように笑った。「若い時はいくらでもつけた」
「若い時はそうでしょうけれど、私が来てから母親さんがそんなに成さるところを見たことが無い」
「さあ、さあ、豊世もちゃっと化粧《おつくり》しよや。二人で揃《そろ》って、林さんへ御年始に行こまいかや」


 温泉場の徒然《つれづれ》に、誰が発起するともなく新年宴会を催すことに成った。浴客は思い思いの趣向を凝らした。豊世が湯から上って来て見ると、姑は何処《どこ》からか袴《はかま》を借りて来て、裾《すそ》の方を糸で括《くく》っているところであった。
「豊世や、今日は林の御隠居さんと一緒に面白い趣向をして見せるぞい。ちゃんともう御隠居さんには打合せをして置いたからネ」
 こうお種が言うので、豊世は不思議そうに、
「母親さんはまた何を成さるんですか――」
「まあ、何でも好いから、お前の羽織を出して貸しとくれ」
 豊世の羽織には裏に日の出に鶴をあらわしたのが有った。お種はそれを借りて、裏返しにして着て見せた。
「真実《ほんと》に、何を成さるんですか」と豊世が心配顔に言った。「母親さん、下手な事は止《よ》して下さいよ」
「お前のように、楽屋でそんなことを言うもんじゃないぞい――見よや、日の出に鶴だ。丁度|御誂《おあつらえ》だ。これで袴を穿《は》いて御覧、立派な万歳《まんざい》が出来るに」
 豊世は笑って可いか、泣いて可いか、解らないような気がした。
「旅の恥は掻捨《かきすて》サ」とお種が言った。「気晴しに、私も子供に成って遊ぶわい……それはそうと、豊世は御隠居さんの許《ところ》へ行って、御仕度はいかがですかッて見て来ておくれや」
 姑の言付で、豊世は部屋を出た。平素《ふだん》から厳格な姑のような人に、そんなトボケた真似《まね》が出来るであろうか、こう思うと、豊世はハラハラした。
 二階の広間には種々《いろいろ》な浴客が集って来た。その日はこの温泉宿に逗留《とうりゅう》しているものばかりでなく、他《よそ》からも退屈顔な男女が呼ばれて来て、一切無礼講で遊ぶことに成った。板前から女中まで仲間入を許された。
 賑《にぎや》かな笑声が起った。隠し芸が始まったのである。若い娘や女中達は楽しそうに私語《ささや》き合ったり、互に身体を持たせ掛けたりして眺めた。こういう時に見せなければ見せる時は無いと思うかして、芸自慢の人達は我勝にと飛出した。中には、喝采《かっさい》に夢中に成って、逆上《のぼせ》たような人も有った。
 この光景《ありさま》を見て来て、廊下伝いに豊世は部屋の方へ戻ろうとした。林の細君に逢った。
 豊世は気が気で無いという風に、「奥さん――母親さん達は大丈夫なんでしょうかねえ。何だか私は心配で仕様が有りません」
「私共の祖母さんが太夫さんなんですトサ」と林の細君は肥満した身体を動《ゆす》りながら笑った。
「母親さんもネ、家の方のことを心配なさり過ぎて、それであんなに気が昂《た》ったんじゃないかと思いますよ――母親さんには無い事ですもの……」
「でも、橋本
前へ 次へ
全74ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング