種は皆なの意見に従って、更に許しの出るまで伊東に留まることにした。山に蕨《わらび》の出る頃には、宿の浴客は連立って遠くまで採りに出掛けた。お種もよく散歩に行って、伊豆の日あたりを眺めながら、夫のことを思いやった。採って来た蕨は丁寧に乾し集めた。支那の方へ行ったとかいう夫の口へ、せめて乾した蕨が一本でも入るような伝《つて》は有るまいか、とも思ってみた。
六月の初に成った。漸《ようや》く待|侘《わ》びた日が来た。お種は独りでそこそこに上京の仕度をした。その時に成っても、達雄からは何等の消息が無い。しかし、お種は夫を忘れることが出来なかった。
旅で馴染《なじみ》を重ねた人々にも別れを告げて、伊豆の海岸を離れて行くお種は、来た時と帰る時と比べると、全く別の人のようであった。海から見た陸《おか》の連続《つづき》、荷積の為に寄って行く港々――すべて一年前の船旅の光景《さま》を逆に巻返すかのようで、達雄に別れた時の悲しい心地《こころもち》が浮んで来た。
汽船は国府津へ着いた。男女の乗客はいずれも陸《おか》へと急いだ。高い波がやって来て艀《はしけ》を持揚げたかと思ううちに、やがてお種は波打際《なみうちぎわ》に近い方へ持って行かれた。間もなく彼女は達雄が悄然《しょんぼり》と見送ってくれたその同じ場処に立った。
六月の光は相模灘に満ちていた。お種は岸を立去るに忍びないような気がした。夫と一緒に歩いた熱い砂を踏んで行くと、松並木がある、道がある、小高い崖《がけ》を上ったところが例の一晩泊った旅舎《やどや》だ。
「オヤ、只今《ただいま》御帰りで御座いますか。大層|御緩《ごゆっく》りで御座いますネ」
何事も知らない旅舎《やどや》の亭主は、お種が昼飯《ひる》の仕度に寄って種々《いろいろ》なことを尋ねた時に、手を揉《も》んだ。
豊世や、森彦や、それから留守居している実の家族にも逢われることを楽みにして、まだ明るいうちにお種は東京へ入った。
九
豊世が借りている二階はゴチャゴチャとした町中にあった。そこは狭い乾燥した往来を隔てて、唯規則正しく、趣味もなく造られた同じ型の商家が対《むか》い合っているような場所である。豊世がこういう町中を択《えら》んだのは、通学の便利の為で、彼女は上京する間もなく簿記を修めることにしていた。そこへお種が尋ねて行った。
姑《しゅうとめ》と嫁とは窮屈な二階で一緒に成った。階下《した》に住む夫婦者は小売の店を出して、苦しい、忙しい生活を営みつつある。しかし心易い人達ではあった。
「何にしても、これはエライところだ」とお種はすこし落付いた後で言った。「でも、豊世――伊東で寂しい思をしながら御馳走《ごちそう》を食べるよりかも、ここでお前と一緒にパンでも咬《かじ》る方が、どんなにか私は安気なよ」
伊豆の方で豊世が見た時よりも、余程姑の容子《ようす》に焦々《いらいら》したところが少なく成ったように思われた。で、豊世もすこし安心して、自分の生家《さと》――寺島の母親が丁度上京中であることを言出した。この母は療治に出て来て、病院の方に居るが、最早《もう》間もなく退院するであろうと話し聞かせた。
「あれ、そうかや」とお種は切ないという眼付をした。「私は寺島の母親《おっか》さんには御目に掛れない」
「関《かま》わないようなものですけれど……」と豊世は言ってみた。
「お前は関わないと思っても、私が困る……第一、お前をこんな処に置いて、寺島の母親さんに御目に掛れた義理じゃない……」
その時、お種は自分の留守へ電報を打って寄《よこ》したという人を想《おも》ってみた。無理にも豊世を引戻そうとした人を想ってみた。唯お種は面目ないばかりでは無かった。
「では、私はこうするで……暫時《しばらく》森彦の方へ頼んで置いて貰うで……それから復《ま》たお前と一緒に成らず。どうしても今度はお目に掛れない……そうだ、そうせまいか……お前もまた悪く思ってくれるなや」
と姑に言われて、豊世は反《かえ》って気の毒な思をした。彼女は何もかも打開《ぶちま》けて、話す気に成った。
「母親さん、私も困りましたよ。寺島の母が着いた時は、真実《ほんとう》に無いと言っても無い……葉書一枚買うことも出来ませんでしたよ、母が、国へ安着の報知《しらせ》を出しとくれ、ちょいとコマカイのが無いからお前の方で立替えといとくれッて、言いましても、それを買いに行くことが出来ません。私がマゴマゴしていますと、お前は葉書を買う金銭《おあし》も無いのかッて、母は泣いて了《しま》いました……でも、その時百円出してくれました……それで、まあ漸《やっ》と息を吐《つ》いたんですよ」
「それは困ったろうネ、私の方へも為替《かわせ》が来なく成った。ああ御金の送れないところを見ると、国でも
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