正太の祝言を済ました頃から、臥床《とこ》の上に横《よこた》わり勝で、とかく頭脳《あたま》の具合が悪かったり、手足が痛んだりした。で、弟の森彦の勧めに従って、この前にも伊豆の温泉を択《えら》んで、遠く病を養いに出掛けたこともあった。伊東行は丁度これで二度目だ。どういうものか、今度は家を離れたくなかった。厭《いや》だ、厭だ、とお種がいうやつを、無理やりに夫に勧められて出て来た位である。
 赤羽で乗替えて、復た東海道線の列車に移った頃は、日暮に近かった。達雄はすこし横に成った。お種はセル地の膝掛《ひざかけ》を夫に掛けてやって、その側で動揺する車の響を聞いた。寝ても寝られないという風に、達雄は間もなく身を起したが、紳士らしい威厳のあるその顔には何処《どこ》となく苦痛の色を帯びていた。彼は、眼に見ることの出来ないある物に追われているような眼付をした。
「どうか成さいましたか」とお種は心配顔に尋ねてみた。「都合が出来ましたら、貴方《あなた》もすこし伊東で保養していらしったら……」
「どうして、お前、そんなユックリしたことが言っていられるもんじゃない」と達雄が言った。「東京で用達をして、その模様に依《よ》っては直に復た国の方へ引返さなけりゃ成らん……俺《おれ》は今、一日を争う身だ……」
 達雄は祖先から伝わった業務にばかり携わっていることの出来ない人であった。彼は今、郷里の銀行で、重要な役目を勤めている。決算報告の期日も既に近づいている。
 車中の退屈|凌《しの》ぎに、お種は窓から買取った菓物《くだもの》を夫に勧めた。達雄はナイフを取出して、自分でその皮を剥《む》こうとした。妙に彼の手は震えた。指からすこし血が流れた。
「俺も余程どうかしてるわい」
 こう言って、達雄は笑に紛らした。お種は不思議そうに夫の顔を眺めたが、ふとその時心の内で、
「まあ、旦那《だんな》が手を切るなんて……今までに無い事だ」
 と不審《いぶか》しく思って見た。
 乗りつづけに乗って行った達雄夫婦は、その晩遅く、疲れて、国府津《こうず》の宿まで着いた。


 波の音が耳について、山から行った人達は一晩中|碌《ろく》に眠られなかった。海の見える国府津の旅舎《やどや》で、達雄夫婦は一緒に朝飯を食った。
 お種は多忙《いそが》しい夫の身の上を案じて、こんな風に言出した。
「貴方――もし御多忙しいようでしたらここから帰って用を達して下さい。最早《もう》船に乗るだけの話で、海さえ平穏《おだやか》なら伊東へ着くのは造作ない――私|独《ひと》りで行きます」
「そうか……そうして貰えると、俺も大きに難有《ありがた》い……しかし、お前独りで大丈夫かナ」と達雄が言った。
「大丈夫にも何にも。ここまで貴方に送って頂けば沢山です。初めての旅ではないし、それに伊東へ行けば多分林さん御夫婦や御隠居さんが来ていらっしゃるで、何にも心配なことは有りません」
「じゃあ、ここでお前に別れるとしよう……こうっと、俺はこれから直に東京へ引返して、銀行の方の用達をしてト……大多忙《おおいそがし》」
 こういう話しをしているところへ、宿の下婢《おんな》が船の時間を知らせに来た。東京の方へ出る汽車が有ると見えて、宿を発《た》って行く旅人も有った。
「汽車が出るそうな」とお種は聞耳を立てた。「丁度好い――この汽車に乗らっせるが可い」
「伊東まで行く思をして御覧な」と達雄は言った。「なにも、そんなに周章《あわ》てなくても好い。汽車はいくらも出る」
「でも、貴方は、一日を争う身だなんて仰《おっしゃ》っていらしったで……それほど大切な時なら、一汽車でも早く東京へ入った方が好からずと思って」
「まあ、船までお前を送ってやるわい」
 多忙《いそが》しがっている人に似合わず、達雄はガッカリしたように坐って、復《ま》た煙草を燻《ふか》し始めた。何となく彼は平素《ふだん》のように沈着《おちつ》いていなかった。
 停車場の方では、汽車の笛が鳴った。達雄は一向それに頓着《とんちゃく》なしで、思い屈したように、深く青い海の方を眺めていた。
 そのうちに、伊東行の汽船の出る時が来た。夫婦は宿を出て、古い松並木の蔭から海岸の方へ下りた。細い砂を踏んで、礫《こいし》のあるところまで行くと、そこには浪《なみ》が打寄せている。旅人の群も集って来ている。艀《はしけ》に乗る男女の客は、いずれも船頭の背中を借りて、泡立ち砕ける波の中を越さねば成らぬ。お種は夫に別れて、あるたくましげな男に背負《おぶ》さった。男はジャブジャブ白い泡の中を分けて行った。
 艀が浮いたり沈んだりして本船の方へ近づくに随《したが》って、悄然《しょんぼり》見送りながら立っている達雄の顔も次第にお種には解らなく成った。勝手を知った舟旅で、加《おまけ》に天気は好し、こうして独りで海を
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