渡るということは、別にお種は何とも思わなかった。唯、彼女は夫のことが気に懸って成らなかった。汽船に移ってから、彼女は余計に心細く思って来た。夫は最早傍に居なかった。


 伊豆行の汽船は相模灘《さがみなだ》を越して、明るい海岸へ着いた。旅客は争って艀に移った。お種も、湯《ゆ》の香《か》のする温泉地へ上った。
 伊東の宿には、そこでお種の懇意に成った林夫婦、隠居、書生などがその夏も来ていた。この家族は東京から毎年のように出掛けて来る浴客である。長い廊下に添うて、庭に面した二階の部屋がこの人達の陣取っていた処で、お種はその隣の一室へ案内された。不取敢《とりあえず》、彼女は嫁の豊世へ宛《あ》てて書いた。
 その日からお種は温泉宿の膳《ぜん》に対って、故郷の方を思う人であった。不思議にも、達雄からは文通が無かった。一週間待っても、二週間待っても、夫は一回の便りもしなかった。
 一月待った。まだそれでも夫からは便りが無かった。正太や豊世の許《ところ》から来る手紙には、父のことに就《つ》いて一言も書いてなくて、家の方は案じるなとか、くれぐれも身《からだ》を大切にして病を養ってくれよとか――唯、母に心配させまい心配させまいとするような風に書いてある。何となくお種は家に異状の起ったことを感じた。こうして遠く離れた土地へ――海岸へ出れば向に大島の見えるような――そんな処へ独り彼女が置《おか》れるというは、何事も夫が見せまいとする為であろうと想像された。お種は、夫に勧められて無理に連出されて来た旅の心細かったことや、それから途中で夫の手が震えてついぞ切った例《ためし》のない指なぞを切ったことを絶えず胸に浮べた。そんなことを思う度に、身体がゾーとして来た。
 二月待った。隣室の林夫婦は、隠居と書生だけ置いて、東京の方へ行く頃と成った。その人達を船まで見送るにつけても、お種は堪え難い思をした。
 東京に居る森彦からの手紙は、すこしばかり故郷の事情を報じて来た。それを読んで、始めてお種は夫の家出を知った。森彦の考えにも、ここで姉が帰郷してみたところで、家の方がどうなるものでも無い。それよりは皆なの意見を容《い》れて今しばらく伊東に滞在しておれ、とある。不思議だ、不思議だと、お種が思い続けたことは、漸《ようや》く端緒《いとぐち》だけ呑込《のみこ》めることが出来るように成った。しかし、彼女の気質を知る者は、誰一人として家の模様をあからさまに告げて寄《よこ》すものが無かった。
 何にも達雄からは音沙汰《おとさた》が無い……苦しいことが有れば有るように、せめて妻の許《ところ》だけへは家出をした先からでも便りが有りそうなもの、とこうお種は夫の心を頼んでいた。また一月待った。


 橋本の若夫婦――正太、豊世の二人は、母のことを心配して、便船に乗って来た。
 この人達を宿の二階に迎えた時のお種の心地《こころもち》は、丁度吾子を乗せた救い舟にでも遭遇《であ》ったようで、破船同様の母には何から尋《たず》ねて可いか解らなかった。
 忰《せがれ》や嫁の顔を見ると、お種も力を得た。彼女はすこし元気づいたような調子で、自分の落胆していることを若いものに見せまいとする風であった。
「お前達は子が無いで――こういう温泉地へ子でも造りに来たかい」
 と言われて、正太と豊世とは暫時《しばらく》顔を見合せた。
「母親《おっか》さん、そこどころじゃ有りませんよ……」
 と豊世が愁《うれ》わしげに言出した。
 正太はこの話を遮《さえぎ》って、妻にも入浴させ、自分でも旅の疲労を忘れようとした。
 浴室は折れ曲った階段を降りて行ったところにあった。伊豆らしい空の見える廊下のところで若夫婦はちょっと佇立《たたず》んだ。
「お前達は子でも造りに来たかいなんて――母親さんはあんな気で被入《いらっ》しゃるんでしょうか」と豊世が言ってみた。「真実《ほんと》に何からお話したら可いでしょうねえ……」
「なにしろ、お前、ああいう気性の母親さんだから、一時《いちどき》に下手《へた》なことは話せない」と正太も言った。「お前が側に附いていて追々と話して進《あ》げるんだネ」
 こんな言葉を取換《とりかわ》した後、正太は二三の男の浴客に混って、湯船の中に身を浸した。彼は妻だけこの伊東に残して置いて復た国の方へ引返さなければ成らない人で有った。前途は彼に取って唯|暗澹《あんたん》としている。父が投出して置いて行った家の後仕末もせねば成らぬ。多くの負債も引受けねば成らぬ。「家なぞはどうでも可い」とよく往時《むかし》思い思いした正太ではあるが、いざ旧《ふる》い家が壊《こわ》れかけて来たと成ると、自分から進んでその波の中へ捲込《まきこ》まれて行った。
 湯から上って、正太は母や妻と一緒に成った。
 母は声を低くして、「林の御隠
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