時の間にかこんな争闘《あらそい》を始めるように成ったか、と考えた時は腹立しかった。
「今日は。お餅《もち》を持って参じやした。どうも遅なはりやして申訳がごわせん」
こう大きな百姓らしい声で呶鳴《どな》りながら、在の米屋が表から入って来た。
「お餅! お餅!」と下婢は子供に言って聞かせた。お房は手を揚げて喜んだ。この児は未だ「もう、もう」としか言えなかった。
百姓は家の前まで餅をつけた馬を引いて来た。「ドウ、ドウ」などと言って、落葉松《からまつ》の枝で囲った垣根のところへ先《ま》ずその馬を繋《つな》いだ。
八
橋本の姉が夫の達雄と一緒に、汽車で三吉の住む町を通過ぎようとしたのは、翌々年《よくよくとし》の夏のことで有った。
姉のお種は病を養う為に、伊豆の伊東へ向けて出掛ける途中で、達雄は又、お種を見送りながら、東京への用向を兼ねて故郷を発《た》ったのである。この旅には、お種は娘のお仙も嫁の豊世も家に残して置いて、汽車の窓で三吉夫婦に逢《あ》われる順路を取った。彼女は、故郷で別れたぎりしばらく末の弟にも逢わないし、未だ弟の細君も知らないし、成るなら三吉の家で一晩泊って、ゆっくり子供の顔も見たいと思うのであったが、多忙《いそが》しい達雄の身《からだ》がそうは許さなかった。
この報知《しらせ》を受取った三吉夫婦は、子供に着物を着更えさせて、停車場《ステーション》を指して急いだ。夫婦は、四歳《よっつ》に成る総領のお房ばかりでなく、二歳《ふたつ》に成るお菊という娘の親ででもあった。お房は母に手を引かれて、家から停車場まで歩いた。お菊の方は近所の娘に背負《おぶ》さって行った。
「お前は菊《きい》ちゃんを抱いてた方が好かろう」
と三吉は、停車場に着いてから、妻に言った。お雪は二番目の子供を自分の手に抱取った。
上りの汽車が停まるべきプラットフォムのところには、姉夫婦を待受ける人達が立っていた。やがて向の城跡の方に白い煙が起《た》った。牛皮の大靴を穿《は》いた駅夫は彼方此方《あちこち》と馳《か》け歩いた。
種々《さまざま》な旅客を乗せた列車が三吉達の前で停ったのは、間もなくで有った。達雄もお種も二等室の窓に倚凭《よりかか》って、呼んだ。弟夫婦は子供を連れてその側に集った。その時、お雪は初めて逢った人々と親しい挨拶《あいさつ》を交換《とりかわ》した。
「橋本の伯母《おば》さんだよ」
と三吉はお房を窓のところへ抱上げて見せた。
「房《ふう》ちゃんですか」と言って、お種は窓から顔を出して、「房ちゃん……お土産《みや》が有りますよ……」
「ヨウ、日に焼けて、壮健《じょうぶ》そうな児だわい」と達雄も快濶《かいかつ》らしく笑った。
お種は窓越しに一寸《ちょっと》でもお房を抱いてみたいという風であったが、そんなことをしている時は無かった。彼女はいそがしそうに、子供へと思って用意して来た品々の土産物を取出して、弟夫婦へ渡した。
「ずっと東京の方へ御出掛ですか」と三吉が聞いた。
「いや、東京は後廻しです」と達雄は窓につかまって、「私だけ東京に用が有りますから、先《ま》ず家内を送り届けて置いて……今度の様に急ぎませんとね、お種もいろいろ御話したいんでしょうけれど――」
「お雪さん、ゆっくり御話も出来ないような訳ですが、今度は失礼しますよ――いずれ復《ま》たお目に掛りますよ」とお種も言った。
お雪は二番目のお菊を抱きながら会釈する、お種は車の上からアヤして見せる、碌《ろく》に言葉を交《かわ》す暇もなく、汽車は動き出した。
お種が窓から首を出して、もう一度弟の家族を見ようとした頃は、汽車は停車場を離れて了《しま》った。田舎《いなか》の子供らしく育ったお房の紅い頬《ほお》、お菊を抱いて立っているお雪の笑顔、三吉の振る帽子――そういうものは直にお種の眼から消えた。
「漸《やっ》とこれで私も思が届いた」とお種も言ってみて、やがて窓のところに倚凭《よりかか》った。
しばらく達雄夫婦の話は三吉等の噂《うわさ》で持切った。旅と思えば、お種も気を張って、平常《いつも》より興奮した精神《こころ》の状態《ありさま》にあった。なるべく彼女は弱った容子《ようす》を夫に見せまいとしていた。その日は達雄も酷《ひど》く元気が無かった。しかし、夫はまた夫で、それを外部《そと》へは表すまいと勉めていた。
汽車が山を下りた頃、隣の室の客で、窓から乳を絞って捨てる女が有った。お種はそれを見て子の無い自分の嫁のことを思出した。彼女は忰《せがれ》や、嫁や、それから不幸な娘などから最早《もう》余程離れたような気がした。
この旅はお種に不安な念《おもい》を抱《いだ》かせた。何ということはなしに、彼女は心細くて心細くて成らなかった。彼女の衰えた身体《からだ》は、
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