くれやしない」
 こうお雪が言った。お雪はもう我慢が仕切れないという風で、いきなり炬燵を離れて、不熱心な下婢の前にある本を壁へ投付けた。
「喧《やか》ましい!」
 下婢は止《よ》すにも止されず、キョトキョトした眼付をしながら、狼狽《うろた》えている。
「何事《なんに》も為《し》てくれなくても可いよ」とお雪は鼻を啜《すす》り上げて言った。「居眠り居眠り本を読んで何に成る――もう可いから止してお休み――」
 唐紙を隔てた次の部屋には、三吉が寂しい洋燈《ランプ》に対《むか》って書物を展《ひろ》げていた。北側の雪は消えずにあって、降った上降った上へと積るので、庭の草木は深く埋《うずも》れている。草屋根の軒から落ちる雫《しずく》は茶色の氷柱《つらら》に成って、最早二尺ばかりの長さに垂下っている。夜になると、氷雪の寒さが戸の内までも侵入して来た。時々|可恐《おそろ》しい音がして、部屋の柱が凍割《しみわ》れた。
「旦那《だんな》さん、お先へお休み」
 と下婢は唐紙をすこし開けて、そこへ手を突いて言った。やがて彼女は炉辺の方で寝る仕度をしたが、三吉の耳に歔泣《すすりなき》の音が聞えた。一方へ向いては貧乏と戦わねばならぬ、一方へ向いては烈《はげ》しい気候とも戦わねばならぬ――こういう中で女子供の泣声を聞くのは、寂しかった。三吉は綿の入ったもので膝《ひざ》を包んで、独《ひと》りで遅くまで机の前に坐っていた。
 三吉が床に就く頃、子供は復た泣出した。柱時計が十二時を打つ頃に成っても、未だお房は眠らなかった。
 お雪は気を焦《いら》って、
「誰だ、そんなに泣くのは……其方《そっち》行け……あんまり種々な物を食べたがるからそうだ……めッ」
 いよいよお房は烈しく泣いた。時には荒く震える声が寒い部屋の壁に響けるように起った。母が怒って、それを制しようとすると、お房は余計に高い声を出した。
「ねんねんや、おころりや、ねんねんねんねんねしな……」とお雪は声を和《やわら》げて、何卒《どうか》して子供を寝かしつけようとする。お房は嬉しそうな泣声に変って、乳房を咬《くわ》えながらも泣止まなかった。
「母さんだって、眠いじゃないか」
 と母に叱られて、復たお房はワッと泣出す。終《しまい》には、お雪までも泣出した。母と子は一緒に成って泣いた。


「どうしてあんなに子供を泣かせるんだねえ。あんなに泣かせなくっても済むじゃないか」
 とお雪は下婢の前に立って言った。隣家《となり》では朝から餅搗《もちつき》を始めて、それが壁一重隔てて地響のように聞えて来る。三吉の家でも、春待宿《はるまつやど》のいとなみに忙《せわ》しかった。門松は入口のところに飾り付けられた。三吉は南向の日あたりの好い場所を択《えら》んで、裏白だの、譲葉《ゆずりは》だの、橙《だいだい》だのを取散して、粗末ながら注連飾《しめかざり》の用意をしていた。
 貧しい田舎教師の家にも最早正月が来たかと思われた。三吉は、裏白の付いた細長い輪飾を部屋々々の柱に掛けて歩いたが、何か復た子供のことでお雪が気を傷《いた》めているかと思うと、顔を渋《しか》めた。三吉の癖で、見込の無い下婢よりは妻の方を責める――理窟《りくつ》が有っても無くても、一概に彼は使う方のものがワルいとしている。だから下婢が増長する、こうまたお雪の方では残念に思っている。
「そりゃ、お前が無理だ」と三吉はお雪に言った。「未だ彼女《あれ》は十五やそこいらじゃないか――子供じゃないか――そんなに責めたって不可《いけない》」
「誰も責めやしません」とお雪はさも口惜《くや》しそうに答えた。お雪は夫が奉公人というものを克《よ》く知らないと思っている――どんなに下婢が自分の命令《いいつけ》を守らないか、どんなに子供をヒドくするか、そんなことは一向御構いなしだ、こう思っている。
「責めないって、そう聞えらア」と復た三吉が言った。
「私が何時責めるようなことを言いました」とお雪は憤然《むっ》とする。
「お前の調子が責めてるじゃないか」
「調子は私の持前です」
「お前が父親《おとっ》さんに言う時の調子と、今のとは違うように聞えるぜ」
「誰が親と奉公人と一緒にして、物を言うやつが有るもんですか。こんな奉公人の前で、親の恥まで曝《さら》さなくっても可《よ》う御坐んす」
「解らないことを言うナア――なにも、そんな訳で親を舁《かつ》ぎ出したんじゃなし――奉公人は親ぐらいに思っていなくって使われるかい」
 奉公人そッちのけにして、三吉とお雪とはこんな風に言合った。その時、お房は何事が起ったかと言ったような眼付をして、親達の顔を見比べた。下婢は下婢で、隅《すみ》の方に小さく成って震えていた。
「女中のことで言合をするなぞは――馬鹿々々しい」と三吉は思い直した。そして、自分等夫婦も、何
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