てある処へ連れて行って遊ばせた。お房は櫛箱から櫛を取出して「かんか、かんか」と言った。そして、三吉の散切頭《ざんぎりあたま》を引捕えながら、逆さに髪をとく真似《まね》をした。
「さあ、ねんねするんだよ」
こう三吉は子供を背中に乗せて言ってみた。書籍《ほん》を読みながら、自分の部屋の中を彼方是方《あちこち》と歩いた。
お房が父の背中に頭をつけて、心地《こころもち》好《よ》さそうに寝入った頃、下婢は勝手口から上って来た。子供の臥床が胡燵《こたつ》の側に敷かれた。
「とても、お前達のするようなことは、俺《おれ》には出来ない」
と三吉は眠った子供をそこへ投出《ほうりだ》すようにして言った。
「旦那さん、お大根が縛れやしたから、釣るしておくんなすって」
と下婢が言った。この娘は、年に似合わないマセた口の利きようをして、ジロジロ人の顔を見るのが癖であった。
三吉は裏口へ出てみた。洗うものは洗い、縛るものは縛って、半分ばかりは乾かされる用意が出来ていた。彼は柿の樹の方から梯子《はしご》を持って来て、それを土壁に立掛けた。それから、彼の力では漸く持上るような重い大根の繋《つな》いである繩《なわ》を手に提げて、よろよろしながらその梯子を上った。お雪や下婢は笑って揺れる梯子を押えた。
「どうも、御無沙汰《ごぶさた》いたしやした」こう言って、お房の時に頼んだ産婆が復た通って来る頃――この「御無沙汰いたしやした」が、お雪の髪を結っていた女髪結を笑わせた――三吉は東京に居る兄の森彦から意外な消息に接した。
それは、長兄の実が復た復た入獄したことを知らせて寄《よこ》したもので有った。その時に成って三吉も、度々《たびたび》実から打って寄したあの電報の意味を了解することが出来た。森彦からの手紙には、祖先の名誉も弟等の迷惑をも顧みられなかったことを掻口説《かきくど》くようにして、長兄にしてこの事あるはくれぐれも痛嘆の外は無い、と書いて寄した。
三吉は二度も三度も読んでみた。旧《ふる》い小泉の家を支《ささ》えようとしている実が、幾度《いくたび》か同じ蹉跌《つまずき》を繰返して、その度に暗いところへ陥没《おちい》って行く径路《みちすじ》は、ありありと彼の胸に浮んで来た。三吉が過去の悲惨であったも、曾《かつ》てこういう可畏《おそろ》しい波の中へ捲込《まきこ》まれて行ったからで――その為に彼は若い志望を擲《なげう》とうとしたり、落胆の極に沈んだりして、多くの暗い年月を送ったもので有った。
実が残して行った家族――お倉、娘二人、それから他へ預けられている宗蔵、この人達は、森彦と三吉とで養うより外にどうすることも出来なかった。それを森彦が相談して寄した。この東京からの消息を、三吉はお雪に見せて、実にヤリキレないという眼付をした。
「まあ、実兄さんもどうなすったと言んでしょうねえ」
と言って、お雪も呆《あき》れた。夫婦は一層の艱難《かんなん》を覚悟しなければ成らなかった。
冬至には、三吉の家でも南瓜《かぼちゃ》と蕗味噌《ふきみそ》を祝うことにした。蕗の薹《とう》はお雪が裏の方へ行って、桑畑の間を流れる水の辺《ほとり》から頭を持上げたやつを摘取って来た。復た雪の来そうな空模様であった。三吉は学校から震えて帰って来て、小倉の行燈袴《あんどんばかま》のなりで食卓に就《つ》いた。相変らず子供は母の言うことを聞かないで、茶椀《ちゃわん》を引取るやら、香の物を掴《つか》むやら、自分で箸《はし》を添えて食うと言って、それを宛行《あてが》わなければ割れる様な声を出して泣いた。折角《せっかく》祝おうとした南瓜も蕗味噌も碌《ろく》にお雪の咽喉《のど》を通らなかった。
「母さんは御飯が何処へ入るか分らない……」
お雪はすこし風邪《かぜ》の気味で、春着の仕度を休んだ。押詰ってからは、提灯《ちょうちん》つけて手習に通って来る娘達もなかった。お雪が炬燵《こたつ》のところに頭を押付けているのを見ると、下婢《おんな》も手持無沙汰の気味で、アカギレの膏薬《こうやく》を火箸《ひばし》で延ばして貼《は》ったりなぞしていた。
寒い晩であった。下婢は自分から進んで一字でも多く覚えようと思うような娘ではなかったが、主人の思惑《おもわく》を憚《はばか》って、申訳ばかりに本の復習《おさらい》を始めた。何時《いつ》の間にか彼女の心は、蝗虫《いなご》を捕《と》って遊んだり草を藉《し》いて寝そべったりした楽しい田圃側の方へ行って了った。そして、主人に聞えるように、同じところを何度も何度も繰返し読んでいるうちに、眠くなった。本に顔を押当てたなり、そこへ打臥《つッぷ》して了《しま》った。
急に、お房が声を揚げて泣出した。復《ま》た下婢は読み始めた。
「風邪を引いてるじゃないか。ちっとも手伝いをして
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