今でも分らないんだろう」と西が軽く笑った。
記者は玉子色の外套の隠袖《かくし》へ両手を入れたまま、反返《そりかえ》って笑った。やがて、すこし萎《しお》れて、前曲《まえこご》みに西の方を覗《のぞ》くようにしながら、
「その頃と見ると、君も大分変った」
と言われて、西は黙って記者を熟視《みつめ》た。三吉は二人の周囲《まわり》を歩いていた。
三人は線路を越して、下りの汽車を待つべきプラットフォムの上へ出た。浅間へは最早雪が来ていた。
「寒い寒い」と西は震えながら、「僕は汽車の中で凍え死ぬかも知れないよ」
「すこし歩こう」と三吉が言出した。
「そうだ。歩いたら少しは暖かに成る」と言って、西は周囲《あたり》を眺め廻して、「この辺は大抵僕の想像して来た通りだった」
三吉は指《ゆびさ》して見せた。「あそこに薄《うっ》すらと灰紫色に見える山ねえ、あれが八つが岳だ。ずっと是方《こっち》に紅葉した山が有るだろう、あの崖《がけ》の下を流れてるのが千曲川《ちくまがわ》サ」
「山の色はいつでもあんな紫色に見えるのかい。もっと僕は乾燥した処かと思った」
「今日は特別サ。水蒸気が多いんだね。平常《いつも》はもっとずっと近く見える」
「それじゃ何ですか、あれが甲州境の八つが岳ですか――あの山の向が僕の故郷です」と記者が言った。
「へえ、君は甲州の方でしたかねえ」と西は記者の方を見た。
「ええ、甲州は僕の生れ故郷です……ああそうかナア、あれが八つが岳かナア。何だか急に恋しく成って来た……」と復《ま》た記者が懐《なつ》かしそうに言った。
三人は眺め入った。
「小泉君」と西は思出したように、「君は何時《いつ》までこんな山の上に引込んでいる気かネ……今の日本の世の中じゃ、そんなに物を深く研究してかかる必要は無いと思うよ」
三吉は返事に窮《こま》った。
「しかし、新聞屋さんもあまり感心した職業では無いね」と西は言った。
「君は又、エジトルだって、そう見くびらなくッても可いぜ」と記者が笑った。
西も笑って、「あんなツマラないことは無いよ。み給え、新聞を書く為に読んだ本が何に成る。いくら読んだって、何物《なんに》も後へ残りゃしない。僕は、まあ、厭だねえ。君なんかも早く切上げて了いたまえ」
「君はそういうけれど、僕は外に仕方が無いし……生涯エジトルで暮すだろう……これも悪縁でサ」と言って、記者は赤皮の靴を鳴らして、風の寒いプラットフォムの上を歩いてみた。
下りの汽車が来た。少壮《としわか》な官吏と、少壮な記者とは、三吉に別れを告げて、乗客も少ない二等室の戸を開けて入った。
「この寒いのに、わざわざ難有う」
と西は窓から顔を出して言った。車掌は高く右の手を差揚げた。列車は動き初めた。長いこと三吉はそこに佇立《たたず》んでいた。
黄ばんだ日が映《あた》って来た。収穫《とりいれ》を急がせるような小春の光は、植木屋の屋根、機械場の白壁をかすめ、激しい霜の為に枯々に成った桑畠《くわばたけ》の間を通して、三吉の家の土壁を照した。家毎に大根を洗い、それを壁に掛けて乾すべき時が来た。毎年山家での習慣とは言いながら、こうして野菜を貯えたり漬物の用意をしたりする頃に成ると、復た長い冬籠《ふゆごもり》の近づいたことを思わせる。
隣の叔母さんは裏庭にある大きな柿の樹の下へ莚《むしろ》を敷いて、ネンネコ半天を着た老婆《おばあ》さんと一緒に大根を乾す用意をしていた。未だ洗わずにある大根は山のように積重ねてあった。この勤勉な、労苦を労苦とも思わないような人達に励まされて、お雪も手拭《てぬぐい》を冠り、ウワッパリに細紐《ほそひも》を巻付けて、下婢《おんな》を助けながら働いた。時々隣の叔母さんは粗末な垣根のところへやって来て、お雪に声を掛けたり、お歯黒の光る口元に微笑《えみ》を見せたりした。下婢は酷《ひど》い荒れ性で、皸《ひび》の切れた手を冷たい水の中へ突込んで、土のついた大根を洗った。
「地大根」と称えるは、堅く、短く、蕪《かぶ》を見るようで、荒寥《こうりょう》とした土地でなければ産しないような野菜である。お雪はそれを白い「練馬《ねりま》」に交ぜて買った。土地慣れない彼女が、しかも身重していて、この大根を乾すまでにするには大分骨が折れた。三吉も見かねて、その間、子供を預った。
日に日に発育して行くお房は、最早親の言うなりに成っている人形では無かった。傍に置いて、三吉が何か為《し》ようとすると、お房は掛物を引張る、写真|挾《ばさみ》を裂く、障子に穴を開ける、終《しまい》には玩具《おもちゃ》にも飽いて、柿の食いかけを机になすりつけ、その上に這上《はいあが》って高い高いなどをした。すこしでも相手に成っていなければ、お房が愚図々々言出すので、三吉も弱り果てて、鏡や櫛箱《くしばこ》の置い
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