――何かしらに仕ようという気で、既に読んでるんだ。厭だね、男の根性という奴は。ホラ、あのゾラの三ヵ条――生きる、愛する、働く――厭な主義じゃないか。ツマラない……」
「小泉さんはこういう処にいらしって、御寂《おさみ》しくは有りませんか」と記者が聞いた。
「そりゃあ君、細君の有る人と無い人とは違うからね」
 こう西が戯れるように言出したので、思わず三吉は苦笑《にがわらい》した。


「そこだよ」と記者は言葉を続けた。「細君が有れば寂しくは無いだろうか。細君が有って寂しくないものなら、僕はこうやって今まで独身などで居やしない――しかも、新聞屋の二階に自炊なぞをして、クスブったりして――」
 西は話頭《はなし》を変えようとした。で、こんな風に言ってみた。「男が働くというのも、考えてみれば馬鹿々々しいサ。畢竟《つまり》、自然の要求というものは繁殖に過ぎないのだ」
「そうすれば、やっぱり追い使われているんだね。鳥が無心で何の苦痛も知らずに歌うというようには、いかないものかしら……」と記者が言った。
「鳥だって、み給え、対手《あいて》を呼ぶんだと言うじゃないか。人間でも、好い声の出る者が好い配偶を得るという訳なんだろう……ところが人間の頭数が増えて来たから、繁殖ということばかりが仕事で無くなって来たサ――だから、自分の好きな熱を吹いて、暮しても、生きていられるのが今の世の中サ」
「何だか僕等の生涯は夢らしくて困る」
「いずくんぞ知らん、日本国中の人の生涯は皆な夢ならんとはだ」
 三吉は黙って、この二人の客の話を聞いていた。その時記者は沈んだ、痛ましそうな眼付をして、西の方を見た。西は目を外《そら》した。しばらく、客も主人《あるじ》も煙草《たばこ》ばかり燻《ふか》していた。
 お房が覗《のぞ》きに来た。
「房《ふう》ちゃん、被入《いら》っしゃい」
 と西が見つけて呼んだ。お房は恥かしそうに、母のかげに隠れた。やがて母に連れられて、菓子皿の中にある物を貰いに来た。
「お客様にキマリが悪いと見えて、母さんの後であんがとうしてます」と言ってお雪は笑った。
 西は二度も三度も懐中時計を取出して眺めた。
「君は何時《なんじ》まで居られるんだい。なんなら泊って行っても可いじゃないか」と三吉が言った。
「ああ難有《ありがと》う」と西は受けて、「今夜僕の為に歓迎会が有るというんで、どうしても四時半の汽車には乗らなくちゃ成らない。今夜はいずれ酒だろうから、僕はあまり難有くない方だけれど――それに、明日はいよいよ演説をやる日取だ」
「それにしても、まあユックリして行ってくれ給え」
「あの時計は宛《あて》に成らない」と西は次の部屋に掛けてある柱時計と自分のとを見比べた。「大変後れてるよ」
「アア吾家《うち》のは後れてる」と三吉も答えた。
 お雪はビイルに有合せの物を添えて、そこへ持って来た。「なんにも御座いませんけれど、どうか召上って下さい」と彼女が言った。三吉も田舎料理をすすめて、久し振で友人をもてなそうとした。
「こりゃどうも恐れ入ったねえ。僕は相変らず飲めない方でねえ」と西は言った。「しかし、気が急《せ》いて不可《いけない》から、遠慮なしに頂きます」
 三吉は記者にもビイルを勧めた。「長野の新聞の方には未だ長くいらっしゃる御積りなんですか」
「そうですナア、一年ばかりも居たら帰るかも知れません……是方《こっち》に居ても話相手は無し、ツマリませんからね……私は信濃《しなの》という国には少許《すこし》も興味が有りません」こう記者が答えた。
 西はめずらしそうに、牛額《うしびたい》と称する蕈《きのこ》の塩漬などを試みながら、「僕は碓氷《うすい》を越す時に――一昨日《おととい》だ――真実《ほんと》に寂しかったねえ。彼方《あそこ》までは何の気なしに乗って来たが、さあ隧道《トンネル》に掛ったら、旅という心地《こころもち》が浮いて来た。あの隧道を――君、そうじゃないか――誰だって何の感じもしないで通るという人は有るまいと思うよ。小泉君が書籍《ほん》を探しに東京へ出掛けて、彼処を往ったり来たりする時は、どんな心地だろう」


 客を見送りながら、三吉は名残《なごり》惜しそうに停車場まで随《つ》いて行った。寒く暗い停車場の構内には、懐手《ふところで》をした農夫、真綿帽子を冠《かぶ》った旅商人、それから灰色な髪の子守の群などが集っていた。
 西と三吉とは巻烟草《まきたばこ》に火を点けた。記者もその側に立って、
「僕が初めて西君と懇意に成ったのは、何時《いつ》頃だっけね。そうだ、君が大学へ入った年だ。僕はその頃、新聞屋仲間の年少者サ――二十の年だっけ――その頃に最早天下の大勢なんてことを論じていたんだよ」
「今は余程《よっぽど》分っていなくちゃならない――ところが、君、やっぱり
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