毒に思って、万一の急に備えるようにと名倉の父から言われて貰って来た大事の金を送ることに同意した。三吉は電報|為替《がわせ》を出しに行った。


 夫は出て行った。お雪は子供の傍に横に成った。次第に発育して行くお房は、離れがたいほどの愛らしい者と成ると同時に、すこしも母親を休息させなかった。子供を育てるということは、お雪に取って、めずらしい最初の経験である。しかし、泣きたい程の骨折ででもある。そればかりではない、気の荒い山家育ちの下婢《おんな》を相手にして、こうして不自由な田舎に暮すことは、どうかすると彼女の生活を単調なものにして見せた。
「ああああ――毎日々々、同じことをして――」
 こうお雪は嘆いて、力なさそうに溜息《ためいき》を泄《もら》した。暫時《しばらく》、彼女は畳の上に俯臥《うつぶし》に成っていた。復たお房は泣出した。
「それ、うまうま」
 と子供に乳房を咬《くわ》えさせたが、乳は最早出なかった。お房は怒って、容易に泣止まなかった。
 炉に掛けた鉄瓶《てつびん》の湯はクラクラ沸立っていた。郵便局まで出掛た三吉は用を達して戻って来て、炉辺で一服やりながら、一雨ごとに秋らしく成る山々、蟋蟀《こおろぎ》などの啼出《なきだ》した田圃側《たんぼわき》、それから柴車だの草刈男だのの通る淋《さび》しい林の中などを思出していた。お雪は子供を下婢に背負《おぶわ》せて置いて、夫の傍へ来た。
「房ちゃん、螽捕《いなごと》りに行きましょう」
 と言って、下婢は出て行った。
 夫婦は、質素な田舎の風習に慣れて、漬物で茶を飲みながら話した。めずらしくお雪は煙草《たばこ》を燻《ふか》した。
「何だってそんなに人の顔をジロジロ見るんです」とお雪が笑った。
「でも、煙草なぞをやり出したからサ」こう答えて、三吉もスパスパやった。
「どういうものか、私は普通《なみ》の身体《からだ》でなくなると、煙草が燻したくって仕様が有りません」
「してみると、いよいよ本物かナ」
 三吉は笑い事では無いと思った。今からこんなに子供が出来て、この上殖えたらどうしようと思った。
 それから四五日経って、三吉は兄の実から手紙を受取った。その中には、確かに送ってくれた金を受取ったとして、電報で驚かしたことを気の毒に思うと書いてあったが、家の事情は何一つ知らして寄さなかった。唯、負債ほど苦しい恐しいものは無い、借金する勿《なか》れ、という意味が極く簡単に言ってあった。
 十一月に入って、復《ま》た実は電報を打って寄した。そうそうは三吉も届かないと思った。しかし、弟として、出来得るかぎりの力は尽さなければ成らないような気がした。せめて全額でないまでも、送金しようと思った。その為に、三吉は三月ばかり掛って漸く書き終った草稿を売ることにした。
「オイ、子供が酷《ひど》く泣いてるぜ。そうして休んでいるなら、見ておやりよ」
「私だって疲れてるじゃ有りませんか――ああ、復た今夜も終宵《よっぴて》泣かれるのかなあ。さあ、お黙りお黙り――母さんはもう知らないよ、そんなに泣くなら――」
 こんな風に、夫婦の心が子供の泣声に奪われることは、毎晩のようであった。母の乳が止ってから、お房の激し易《やす》く、泣き易く成ったことは、一通りでない。それに、歯の生え初めた頃で、お房はよく母の乳房を噛《か》んだ。「あいた――あいた――いた――いた――ち、ち、ちッ――何だってこの児はそんなに乳を噛むんだねえ――馬鹿、痛いじゃないか」と言って、母がお房の鼻を摘《つま》むと、子供は断《ちぎ》れるような声を出して泣いた。
「馬鹿――」
 と叱られても、お房はやはり母の懐《ふところ》を慕った。そして、出なくても何でも、乳房を咬《くわ》えなければ、眠らなかった。
 三吉は又、自分の部屋をよく出たり入ったりした。子供の泣声を聞きながら机に対《むか》うほど、彼の心を焦々《いらいら》させるものは無かった。日あたりの好い南向の部屋とは違って、彼が机の置いてあるところは、最早寒く、薄暗かった。
 収穫《とりいれ》の休暇《やすみ》が来た。農家の多忙《いそが》しい時で、三吉が通う学校でも一週間ばかり休業した。
 ある日、三吉は散歩から帰って来た。お雪は馳寄《かけよ》って、
「西さんが被入《いら》っしゃいましたよ」
 と言いながら二枚の名刺を渡した。
「御出掛ですかッて、仰《おっしゃ》いましてね――それじゃ、出直しておいでなさるッて――」とお雪は附添《つけた》した。
 こういう侘《わび》しい棲居《すまい》で、東京からの友人を迎えるというは、数えるほどしか無いことで有った。やがて、「お帰りでしたか」と訪れて来た覚えのある声からして、三吉には嬉しかった。
 西は少壮《としわか》な官吏であった。この人は、未だ大学へ入らない前から、三吉と往来して、
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