が置いて行った煙は、一団《ひとかたまり》ずつ桑畠の間を這《は》って、風の為に消えた。停車場の方で、白い蒸気を噴出す機関車、馳《か》けて歩く駅夫、乗ったり降りたりする旅客の光景《さま》などは、その踏切のところから望むことが出来る。やがて盛んな汽笛が起った。
「直樹さん、左様なら」
 と三吉は朝一番で発った人のことを思出して、もう一度別れを告げるように口の中で言ってみた。汽車は出て行った。三吉は山の上に残った。

        七

 一年経った。三吉は沈んで考えてばかりいる人ではなかった。彼の心は事業《しごと》の方へ向いた。その自分の気質に適した努力の中に、何物を以《もっ》ても満《みた》すことの出来ない心の空虚を充《みた》そうとしていた。
 彼が探していた質実な生活は彼の周囲《まわり》に在った。先《ま》ず彼は眼を開いて、この荒寥《こうりょう》とした山の上を眺《なが》めようとした。そして、その中にある種々《いろいろ》な物の意味を自分に学ぼうとしていた。
 お雪も最早《もう》家を持ってから足掛三年に成る。次第に子供も大きく成った。家には十五ばかりに成る百姓の娘も雇入れてあった。年寄の居ない三吉の家では、夫婦して子供を育てるということすら容易でなかった。
 丁度三吉は学校の用向を帯びて出京した留守で、家では皆な主人の帰りを待侘《まちわ》びていた。
「今晩は」
 こう声を掛けて、近所の娘達が入って来た。この娘達は、夕飯の終る頃から手習の草紙を抱《かか》えて、お雪のところへ通って来るように成ったのである。
「何卒《どうぞ》、お上んなさいまし」とお雪は入口の庭の方へ子供を向けて、自分も一緒に蹲踞《しゃが》みながら言った。
「まあ、房ちゃんの肥っていなさること」と娘の一人が言った。
 他の娘も笑いながら、「房ちゃん、シイコが出ますかネ」
 お房は半分眠っていた。お雪は子供の両足を持添えて、「シ――」とさせて、やがて自分の部屋の方へ連れて行った。
 子供の寝床は敷いてあった。お雪が寝衣を着更えさせていると、そこへ下婢《おんな》は線香の粉にしたのを紙に包んで持って来た。お房は股擦《またずれ》がして、それが傷《いた》そうに爛《ただ》れている。お雪は線香の粉をなすって、襁褓《むつき》を宛《あ》てて、それから人形でも縛るようにお房の足を縛った。
 お雪が横に成って子供を寝かしつけている間に、近所の娘達は洋燈《ランプ》の周囲《まわり》へ集った。下婢も台所を片付けて来て、手習の仲間入をさして貰った。ともかくもこの娘は尋常科だけ卒業したと言って、その前に雇った下女《おんな》のように、仮名の「か」の字を右の点から書き始めたり、「す」の字を結《むすび》だけ書き足すようなことはしなかった。
 しかし、この下婢《おんな》は性来|読書《よみかき》が嫌《きら》いと見えて、どんなに他の娘達が優美な文字を書習おうとして骨折っていても、それを羨《うらや》ましいとも思わなかった。お雪が起きて来て、ヨモヤマの話を始める頃には、下婢も黙って引込んでいない。無智な彼女はまたそれを得意にして、他の娘達よりも喋舌《しゃべ》った。
 お房を背負《おぶ》って町へ遊びに行った時、ある人がこんなことを言ったと言って、それを下婢が話し出した。
「教師の赤にしては忌々《いめいめ》しいほどミットモねえなあ――赤もフクレてるし、子守もフクレてるし、よく似合ってらあ」
 お雪も他の娘も笑わずにいられなかった。
「明日はこちらの叔父さんも御帰りに成りやしょう」
 と娘の一人が言った。お雪はこの娘達を相手にして、旅にある夫の噂《うわさ》をした。
 東京から三吉は種々な話を持って帰って来た。旅に出て帰って来る時ほど、彼も家を思い妻子を思うことはなかった。
「房ちゃん、御土産《おみや》が有るぜ」
 と三吉は旅の鞄《かばん》をそこへ取出した。
「父さんが御土産を下さるッて。何でしょうね」とお雪は子供に言って聞かせて、鞄の紐《ひも》を解《と》きかけた。「まあ、この鞄の重いこと。父さんの荷物は何時《いつ》でも書籍《ほん》ばかりだ」
 下婢《おんな》は茶を運んで来た。三吉は乾いた咽喉《のど》を霑《うるお》して、東京にある小泉の家の変化を語り始めた。兄の実が計画していた事業は驚くべき失敗に終ったこと、更に多くの負債を残したこと、銀行の取引が停止されたこと、これに連関して大将の家まで破産の悲運に陥りかけたこと、それから実の家ではある町中《まちなか》の路地のような処へ立退《たちの》いたことなどを話した。
「姉さんの姉さんで、ホラ、お杉さんという人が有ったろう。あの人も兄貴の家で亡くなった」と三吉は附添《つけた》した。
「宗さんはどうなさいました」とお雪が聞いた。
「宗さんか。あの人は世話してくれるところが有って、そっちの方へ
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