を連れて、鉄道の踏切からずっとまだ向の崖下《がけした》にある温泉へ入浴《はいり》に行った。
 ふと、この裏の白い手紙が三吉の目に着いた。不思議に思って、開けてみた。一度読んだ。気を沈着《おちつ》けて繰返してみた。彼は自分で抑えることもどうすることも出来ない力のままに動いた。知らないでいる間は格別、一度こういう物が眼に触れた以上は、事の真相を突留めずにいられなかったのである。つと箪笥の引出を開けてみた。針箱も探してみた。櫛箱《くしばこ》の髢《かもじ》まで掻廻《かきまわ》してみた。台所の方へも行ってみた。暗い入口の隅《すみ》には、空いた炭俵の中へ紙屑《かみくず》を溜《た》めるようにしてあった。三吉は裏口の柿の樹の下へその炭俵をあけた。隣の人に見られはせぬか、女連《おんなれん》は最早《もう》帰りはせぬか、と周囲《あたり》を見廻したり、震えたりした。
 勉が手紙の片《きれ》はその中から出て来た。その時、三吉はこの人の熱い情を読んだ。若々しい、心の好さそうな、そして気の利《き》いた勉の人となりまでも略《ほぼ》想像された。温泉に行った人達の帰りは近づいたらしく思われた。読んだ手紙は元の通りにして、妻が帰って来て見ても、ちゃんと箪笥の上に在《あ》るようにして置いた。
 お雪とお福の二人は洋傘《こうもり》を持って入って来た。お雪は温泉場の前に展《ひら》けた林檎畠《りんごばたけ》、青々と続いた田、谷の向に見える村落、それから山々の眺望の好かったことなどを、妹と語り合って、復た洗濯物を取込むやら、夕飯の仕度に掛るやらした。
 やがて家のものは食卓の周囲《まわり》に集った。お雪は三吉と相対《さしむかい》に坐って、楽しそうに笑いながら食った。彼女の眼は柔順と満足とで輝いていた。時々三吉は妻の顔を眺めたが、すこしも変った様子は無かった。三吉は平素《いつも》のように食えなかった。


 一夜眠らずに三吉は考えた。翌日《あくるひ》に成ってみると、お雪や勉が交換《とりかわ》した言葉で眼に触れただけのものは暗記《そらん》じて了った程、彼の心は傷《いた》み易《やす》く成っていた。家を出て、夕方にボンヤリ帰って来た。
 夫の好きな新しい野菜を料理して、帰りを待っていたお雪は、家のものを蒐《あつ》めて夕飯にしようとした。土地で「雪割《ゆきわれ》」と称《とな》えるは、莢豌豆《さやえんどう》のことで、その実の入った豆を豚の脂《あぶら》でいためて、それにお雪は塩を添えたものを別に夫の皿へつけた。彼女は夫の喜ぶ顔を見たいと思った。
「頂戴《ちょうだい》」
 とお福や書生は食い始めた。三吉は悪い顔色をして、折角お雪が用意したものを味おうともしなかった。
「今日は碌《ろく》に召上らないじゃ有りませんか……」
 と言って、お雪は萎《しお》れた。
 その晩、三吉は遅くまで机に対って、書籍《ほん》を開けて見たが、彼が探そうと思うようなものは見当らなかった。復た夜通し考え続けた。名倉の母へ手紙でも書こうか、お雪の親しい友達に相談しようか、と思い迷った。
 錯乱した頭脳《あたま》は二晩ばかり眠らなかった為に、余計に疲れた。彼はお雪と勉の愛を心にあわれにも思った。ブラリと家を出て、復た日の暮れる頃まで彷徨《うろつ》いた三吉は、離縁という思想《かんがえ》を持って帰って来た。もし出来ることなら、自分が改めて媒妁《ばいしゃく》の労を執って、二人を添わせるように尽力しよう、こんなことまで考えて来た。
 家出――漂泊――死――過去ったことは三吉の胸の中を往《い》ったり来たりした。「自分は未だ若い――この世の中には自分の知らないことが沢山ある」この思想《かんがえ》から、一度破って出た旧《ふる》い家へ死すべき生命《いのち》も捨てずに戻って来た。その時から彼はこの世の艱難《かんなん》を進んで嘗《な》めようとした。艱難は直に来た。兄の入獄、家の破産、姉の病気、母の死……彼は知らなくても可いようなことばかり知った。一縷《いちる》の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開こうと思った。東京を発《た》つ時、稲垣が世帯持の話をして、「面白いのは百日ばかりの間ですよ」と言って聞かせたが、丁度その百日に成るか成らないかの頃、最早自分の家を壊そうとは三吉も思いがけなかった。
 倒死《のたれじに》するとも帰るなと堅く言ってよこしたという名倉の父の家へ、果してお雪が帰り得るであろうか。それすら疑問であった。お雪は既に入籍したものである。法律上の解釈は自分等の離縁を認めるであろうか。それも覚束《おぼつか》なかった。三吉はある町に住む弁護士の智慧《ちえ》を借りようかとまで迷った。蚊屋《かや》の内へ入って考えた。夏の夜は短かかった。


 三吉は家を出た。彼の足は往時《むかし》自分の先生であったという学校の校長の住居《
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