残っていた。彼女の風俗は、豊かな生家《さと》の生活を思わせるようなもので、貧しい三吉の妻には似合わなかった。紅《あか》く燃えるような帯揚などは、畠に出て石塊《いしころ》を運ぶという人の色彩《いろ》ではなかった。
 三吉はお雪の風俗から改めさせたいと思った。彼は若い妻を教育するような調子で、高い帯揚の心《しん》は減らせ、色はもっと質素なものを択《えら》べ、金の指輪も二つは過ぎたものだ、何でも身の辺《まわり》を飾る物は蔵《しま》って置けという風で、この夫の言うことはお雪に取って堪え難いようなことばかりであった。
「今から浅黄の帯揚なぞが〆《し》められるもんですか」とお雪はナサケないという眼付をした。「今からこんな物を廃《よ》せなんて――若い時に〆なければ〆る時はありゃしません」
 とはいえ、お雪は夫の言葉に従った。彼女は今までの飾を脱ぎ去って、田舎教師の妻らしく装うことにした。「よくよく困った時でなければ出すなッて、阿爺《おとっ》さんに言われて貰って来たんですが……」と言って、百円ばかりの金の包まで夫の前に置いた。お雪は又、附添《つけた》して、仮令《たとい》倒死《のたれじに》するとも一旦|嫁《とつ》いだ以上は親の家へ帰るな、と堅く父親に言い含められて来たことなどを話した。凛然《りん》とした名倉の父の気魄《きはく》、慈悲――そういうものは、お雪の言葉を通しても略《ほぼ》三吉に想像された。
「若布《わかめ》は宜《よ》う御座んすかねえ」と門口に立って声を掛ける女が幾人《いくたり》もあった。遠く越後の方から来る若い内儀《かみさん》や娘達の群だ。その健気《けなげ》な旅姿を眺めた時は、お雪も旅らしい思に打たれた。蛙の鳴声も水車の音に交って、南向の障子に響いて来る……ガタガタ荷馬車の通る音も聞える……
 この三吉の家は旧《ふる》い街道の裏手にあたって、古風な町々に連続《つづ》いたような位置にある。お雪は一度三吉に連れられて、樹木の多い谷間《たにあい》を通って、校長という人の家に案内された時、城跡に近い桑畠の向に建物の窓を望んだ。それが夫の通う学校であった。三吉はその道を取ることもあり、日によっては裏の流について、停車場前の新しい道路を横に切れて、それから桑畠だの石垣だのの間を折れ曲って鉄道の踏切のところへ出ると、そこで一里も二里も通って来る生徒の群に逢《あ》って、一緒にアカシヤの生《お》い茂った学校の表門の前へ出ることもある。お雪は夫の話によって、自分等の住む家が大きな山の上の傾斜の中途にあることを知った。幾十里隔てて、橋本の姉と同じ国に来ているような気がしない、と夫は言ったが、お雪にはまだその方角さえも判然《はっきり》しなかった。


 裏の畠には、学校の小使に習って、豆、馬鈴薯《じゃがいも》、その他作り易《やす》い野菜から種を播《ま》いた。葱苗《ねぎなえ》を売りに来る百姓があった。三吉の家では、それも買って植えた。
 お雪が三吉の許《もと》へ嫁いて来るについては種々《いろいろ》な物が一緒に附纏《つきまと》って来た。「未来のWと思っていたが、君が嫁いて失望した……いずれその内に訪ねて行く……」こんなことを女名前にして書いて寄《よこ》す人も有った。お雪はそれを三吉に見せて、こういう手紙には迷惑すると言った。三吉は好奇心を以《もっ》て読でみた。放擲《うっちゃらか》して置いた。どうかするとお雪は不思議な沈黙の状態《ありさま》に陥ることも有った。何か家の遣方《やりかた》に就いて、夫から叱られるようなことでも有ると、お雪は二日も三日も沈んで了う。眼に一ぱい涙を溜《た》めていることも有る。こういう時には三吉の方から折れて出て、どうしても弱いものには敵《かな》わないという風で、種々に細君の機嫌《きげん》を取った。
「氷豆腐というものもナカナカ好いものだね……ウマい……ウマい‥…今日の菜《さい》は好く出来た……」
 こう三吉の方で言うと、お雪も気を取直して、夫と一緒に楽しく食うという風であった。尤《もっと》もこの沈黙はそう長くは続かなかった。一度その状態《ありさま》を通り越すと、彼女は平素《いつも》のお雪に復《かえ》った。そして、晴々しい眼付をして、復た根気よく働いた。お雪は夫の境涯をさ程苦にしているでもなかった。
 お雪の部屋には、生家《さと》から持って来た道具なども置かれた。大きな定紋の付いた唐皮《からかわ》の箱には、娘の時代を思わせるような琴の爪《つめ》、それから可愛らしい小さな男女《おとこおんな》の人形なども入れてあった。親族や知人からはそれぞれ品物やら手紙やらで祝って寄《よこ》した。三吉が妻の友達にと紹介した二人の婦人からも来た。
「曾根さんは曾根さんらしい細い字で書いて来たネ」と三吉が言て笑った。
「真実《ほんと》に皆さんは御上手なんですねえ」と
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