書生はよくお雪の手伝いをした。不慣な彼女が勝手で働いている間に、奥の方の庭までも掃除を済ました。バケツを提げて、その縁側へお雪が雑巾掛《ぞうきんがけ》に行ってみると、丁度|躑躅《つつじ》の花の盛りである。土塀《どべい》に近く咲いた紫と、林檎《りんご》の根のところに蹲踞《うずくま》ったような白とが、互に映り合て、何となくこの屋根の下を幽静《しずか》な棲居《すまい》らしく見せた。土塀の外にもカチャカチャ鍋《なべ》を洗う音などがした。向の高い白壁には朝日が映《あた》って来た。
 飯の用意も出来た。お雪は自分の手で造ったものを炉辺の食卓の上に並べて、夫にも食わせ、自分でも食った。書生も楽しく笑いながら食った。世帯を持って初めての朝、味噌汁《みそしる》も粗末な椀《わん》で飲《のん》だ。お雪が生家《さと》の知人《しりびと》から祝ってくれたもので、荷物の中へ入れて持って来た黒塗の箸箱《はしばこ》などは、この食卓に向きそうも無かった。
 やがて三吉や書生が学校へ行く時が来た。質素な田舎のことで、着て出る物も垢《あか》さえ着いていなければそれで間に合った。お雪は夫の為に大きな弁当箱を包んだ。こんな風にして、彼女は新婚の生涯を始めた。奉公人を多勢使って贅沢《ぜいたく》に暮して来た日までのことに比べると、すべて新たに習うようなものである。とはいえ、お雪は壮健《じょうぶ》な身体を持っていた。彼女は夫を助けて働けるだけ働こうと思った。


 鍛冶屋《かじや》に注文して置いた鍬《くわ》が出来た頃から、三吉は学校から帰ると直ぐそれを手にして、裏の畠の方へ出た。彼は家の持主から桑畠の一部を仕切って借りた。そこは垣根に添うた、石塊《いしころ》の多い、荒れた地所で、野菜畠として耕す前には先ず堅い土から掘起して掛らなければ成らなかった。
 俗に鉄道草と称《とな》える仕末に負えない雑草が垣根の隅《すみ》に一ぱい枯残っていた。それを抜取るだけでも、三吉はウンザリして了《しま》った。その他の雑草で最早《もう》根深く蔓延《はびこ》っているのも有った。青々とした芽は、其処《そこ》にも、是処《ここ》にも、頭を擡《もちあ》げていた。
 労苦する人達の姿が三吉の眼に映り初めたのは、橋本の姉の家へ行く頃からであった。木曾に居る時も、幾分《いくら》か彼はその心地《こころもち》を紙に対《むか》って書いた。こうして僅かばかりの地所でも、実際自分で鍬を執《と》って耕してみるということは、初めてである。不慣な三吉は直に疲れた。彼の手足は頭脳《あたま》の中で考えたように動かなかった。時々彼はウンと腰を延ばして、土の着いた重い鍬に身体を持たせ凭《か》けて、青い空気を呼吸した。
 マブしい日が落ちて来た。三吉は眼鏡《めがね》の上から頬冠りして、復た働き始めた。
「どうも、好く御精が出ます」
 と声を掛けて、クスクス笑いながら垣根の外から覗《のぞ》いて通る人があった。学校の小使だ。この男の家では小作をして、小使の傍《かたわ》ら相応の年貢を納めている。いずれ三吉はこの男に相談して、畠の手伝いを頼もうと思った。野菜の種も分けて貰おうと思った。
 翌日《あくるひ》も、学校から帰ると直ぐ三吉は畠へ出た。
 お雪は垣根と桑畠の間を通って、三吉の働いている処へ来た。書生も後から随《つ》いて来た。
「オイ、そんなところに立って見ていないで、ちと手伝いをしろ」と三吉が言た。
「御手伝いに来たんですよ」とお雪は笑った。
「お前達はその石塊《いしころ》を片付けナ」と三吉は言付けて、「子供のうちから働きつけた者でなくちゃ駄目だね――所詮《とても》この調子じゃ、俺も百姓には成れそうも無いナ」
 三吉は笑って、一度掘起した土を復た掘返した。大な石塊が幾個《いくつ》も幾個も出て来た。
 お雪も手拭を冠り、尻端を折って、書生と一緒に手伝い始めた。石塊は笊《ざる》に入れて、水の流の方へ運んだ。掘起した雑草の根は畠の隅に積重ねてあった。その容易に死なない、土の着いた、重いやつを、何度にか持運んで捨てに行くということすら、お雪には一仕事であった。三人は日光を浴びながら一緒に成って根気に働いた。
「頬冠りも好う御座んすが、眼鏡が似合いません」
 こうお雪は夫の方を見て、軽く笑うように言った。書生も立って見ていた。三吉も苦笑《にがわらい》して、土の着いた手で額の汗を拭《ぬぐ》った。


 清い流で鍬を洗って、入口の庭のところに腰掛けながら、一服やった時は、三吉も楽しい疲労《つかれ》を覚えた。お雪も足を洗って入って来た。激しく女の労働する土地で、麻の袋を首に掛けながら桑畠へ通う人達が会釈して通る。お雪は家を持つ早々こうして女も働けば働けるものかということを知った。
 嫁《かたづ》いて来たばかりで、まだ娘らしい風俗がお雪の身の辺《まわり》に
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