東京を発つことにした。買物やら、荷造やら、いそがしい思をした。その時、三吉は実の居るところへ行って、一と先《ま》ず宗蔵の世話を断《ことわ》った。
「あれはすこし無理だった――俺の方が無理だった」
 と実は笑いながら点頭《うなず》いた。
 名倉の母や兄からは、停車場《ステーション》までは見送らないと言って、お雪の許へ箪笥を買う金を二十円ほど届けて来た。別離《わかれ》の言葉が取換《とりかわ》された。三時頃には、夫婦は上野の停車場へ荷物と一緒に着いた。多くの旅客も集って来ていた。


 暗くなって三吉夫婦は自分等の新しい家に着いた。汽車の都合で、途中に一晩泊って、猶《なお》さ程旅を急がなかった為に、復た午後から乗って来た。その日のうちに着きさえすれば可い、こういう積りであったので。お雪は汽車を降りるから自分の家の庭に入るまで、暗い、知らない道を夫に連れられて来た。
 庭を上ると、直ぐそこは三尺四方ばかりの炉を切った部屋で、炉辺《ろばた》には年若な書生が待っていた。この書生は三吉が教えに行く学校の生徒であった。
「明日は月曜ですから、最早それでも御帰りに成る頃かと思って、御待ち申していました」と書生はお雪に挨拶した後で言った。
「大分ユックリやって来ました」と三吉も炉辺に寛《くつろ》いだ。
 お雪は眺《なが》め廻しながら、
「へえ、こういうところですか」
 と言って、書生に菓子などを出して勧めた。先ず眼につくものは、炉に近い戸棚、暗い煤《すす》けた壁、大きな、粗末な食卓……
「ここは士族屋敷の跡なんだそうだ」と三吉は妻に言い聞かせた。「後の方に旧《もと》の入口があるがね、そこは今物置に成てる。僕等が入って来たところは、先に住んだ人が新規に造《こしら》えた入口だ。どうも、酷《ひど》い住方をして行ったものサ。壁を張る、畳を取替える――漸《ようや》くこれだけに家らしくしたところだ。この炉も僕が来てから造り直した」
 書生は物置部屋の方から奥の洋燈《ランプ》を点《つ》けて出て来た。三吉はそれを受取って、真暗な台所の方へ妻を連れて行て見せた。広い板間《いたのま》、立て働くように出来た流許《ながしもと》、それからいかにも新世帯らしい粗末な道具しかお雪の目に入らなかった。台所の横手には煤けた戸があった。三吉はそれを開けて、そこに炭、薪、ボヤなどの入れてあることを言って、洋燈を高く差揚げて見せたが、お雪には暗くてよく見えなかった。
「ここをお前の部屋にするが好い」
 と三吉が洋燈を持って案内したは、炉辺の次にある八畳の間で、高い天井、茶色の壁紙で貼《は》った床の間などがお雪の眼についた。奥には、これと同じ大さの部屋があって、そこには本や机が置いてある。その隣に書生の部屋がある。割合に広い住居ではあったが、なにしろ田舎臭い処であった。
 停車場前で頼んで置いた荷物も届いた。夫婦は未だ汽車で動《ゆす》られているような気がした。途中から一緒に汽車に乗り込んで来た夫婦ものらしい人達は、未だ二人の前に腰掛けて二人の方を見て、何か私語《ささや》き合っているらしくも思われた。あの細君の大きな目――あの亭主の弱々しい、力のない眼――そういうものは考えたばかりでも羞恥《しゅうち》の念を起させた。二人は人に見られて旅することを羞《は》じた。どうかすると互に顔を見ることすら避けたかった。


 戸の透間《すきま》が明るく成った。お雪は台所の方へ行って働いた。裏口を開けて屋外《そと》へ出てみると、新鮮な朝の空気は彼女に蘇生《いきかえ》るような力を与えた。その清々《せいせい》とした空気はお雪が吸ったことの無いようなものであった。
 一晩知らずに眠った家は隣と二軒つづきの藁葺《わらぶき》の屋根であった。暗くて分らなかった家の周囲《まわり》もお雪の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。彼女は、桑畠《くわばたけ》の向に見える人家や樹木の間から、遠く連《つづ》いた山々を望むことの出来るような処へ来ていた。ゴットン、ゴットンと煩《うるさ》く耳についたは、水車の音であった。
 裏には細い流もあった。胡頽子《ぐみ》の樹の下で、お雪は腰を曲《かが》めて、冷い水を手に掬《すく》った。隣の竹藪《たけやぶ》の方から草を押して落ちて来る水は、見ているうちに石の間を流れて行く。こういう処で顔を洗うということすら、お雪にはめずらしかった。
 例の書生は手桶《ておけ》を提《さ》げて、表の方から裏口へ廻って来た。飲水を汲《く》む為には、唐松《からまつ》の枝で囲った垣根の間を通って、共同の掘井戸まで行《いか》なければ成らなかった。
 前の晩に見たよりは、家の内の住み荒された光景《ありさま》も余計に目についた。生家《さと》を見慣れた眼で、部屋々々を眺めると、未だ四辺《そこいら》を飾る程の道具一つ出来ていなかった。

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