た。一方に空がひらけて、旅館にゐながらでも遠い山々を望むことの出来るやうなところだ。秋はさぞかしと思はれる。
こゝへ来て聴きつける小鳥の声も、わたしには自分の郷里を思ひ出させる。あの木曾山に多い、杉、檜、それから栗の林なぞはこの伊香保の里にもある。こゝは自分の郷里ほど深い谷間でもなく、又、あれほど大きな森林地帯でもないが、そのかはり自分の郷里にはないものがある。熱すぎるくらゐであるが、しかし豊富な山の湯がある。
伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉でも熱海のやうに無制限な発展の出来ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の悩みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、渓水
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