ものも、こぞり、つどつて、その一夜を飲みあかすことを駕籠かきどもの『あんこ別れ』といふよしである。
この『あんこ別れ』の一語には伊香保の昔が残つてゐて、今でもそれを感じられるやうに思はれるが、しかしその言葉の意味は最早土地のものにもはつきりしない。伊香保日記の筆者もそのことを言つて、あんこはあの子であらうか、そんなら、あんこ別れはあの子別れである、馴染の女に別れるといふこゝろであらうと書いてある。このことは土地のものに尋ねて見てもはつきりしないと言つてゐた。わたしたちはあんこ別れの昔を感ずることは出来ても、それを説き明すといふことは出来ない。しかし、『あんこ』といふことは、わたしの郷里の方でも言ふ。木曾では女馬をあんこ馬とも言ふ。あんこ別れはしばらく馴染になつた土地の女子に別れるの意味であらう。
わたしたちが渋川から伊香保に着いたのは、晴れたり曇つたりするやうな日の午後で、時に薄い泄れ日が谷の窪地に射して来たり、時に雷雨がやつて来たりした。軽井沢あたりのやうな空気の乾く高原地へ行つたともちがひ、わたしたちは山の中腹の位置に身を置いて、思ふさま、うち湿つた山気を呼吸することが出来
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