書いたものは、何年たつて開いて見ても好い。土を踏まないこと五十日、とその日記の最初に出てゐる病後らしい消息の記事が先づ身にしみた。家を出るにもそゞろに足が行きなやんで、たちまち眼もくるめくとある。

   年寄に留守をあづけて秋の旅
   唐黍は採りてたうべよ留守のほど
   朝顔の垣根に寄るや暇乞

 これらはその日記の中に見える首途の吟で、人をいたはり、又みづからをいたはる病後の思ひがにじむばかりに出てゐる。殊に、年寄に留守をあづけてと何気なくうち出してある述懐には心をひかれた。さういふわたしは自分一人ぎりの旅でもない。川越から上京した老母に留守を頼み、妻同伴でこの保養に出掛けて来た。
 その日記の中に、『あんこ別れ』といふ伊香保言葉が出てゐる。この温泉地へ通ふ電車や自動車の便もまだなかつた昔は、毎年の夏、山駕籠をかつぐ男が湯の客の送り迎へに、麓の村々から集まつて来るものも多かつたとか。そろ/\山も寒く、湯の客も散ずる季節を迎へると、九月十五日といふ日の晩を期して、仲間のもの一同が互に慰労の酒を酌みかはす。伊香保にとゞまつて山かせぎするものも、山を降りて思ひ/\の家路に就かうとする
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