つ汽車で通つても、あの利根川の流域から上州の山々を望み見る感じは新鮮で、そして深い。あれは東海道辺から足柄連山を望むともちがつて、また別の趣がある。曾て七年の月日を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、あの上州の山々を汽車の窗から望んだことも忘れがたい。

 伊香保は思つたほどの山の上でもなく、むしろ山の中腹の位置にあつて、直ぐにも親しめるやうな北向の谷間であるのもうれしかつた。七月八月はどの旅館も殆んど客で一ぱいと聞くに、わたしが僅かの暇を見つけてからだを養ひに行つたのはそんな入梅の季節だから、湯の客もすくない時であつた。でも、あゝした湯治場のさびしくひつそりとした時に行き合はせたのもわるくない。この伊香保行にはわたしはかねて籾山梓月君から贈られた伊香保日記を旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合巻としてあるもので、かねて非売品として知人の間に分けられたほどの心づくしの冊子であるが、自分にも贈つて貰つた時から最早五年の月日がたち、長いこと読み返して見る折もなく本箱の中にしまつて置いてあつたものだ。さすがに朝夕をおろそかにしない人の心を籠めて
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