た。一方に空がひらけて、旅館にゐながらでも遠い山々を望むことの出来るやうなところだ。秋はさぞかしと思はれる。
 こゝへ来て聴きつける小鳥の声も、わたしには自分の郷里を思ひ出させる。あの木曾山に多い、杉、檜、それから栗の林なぞはこの伊香保の里にもある。こゝは自分の郷里ほど深い谷間でもなく、又、あれほど大きな森林地帯でもないが、そのかはり自分の郷里にはないものがある。熱すぎるくらゐであるが、しかし豊富な山の湯がある。

 伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉でも熱海のやうに無制限な発展の出来ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の悩みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、渓水を飲む地方の人は心までも潔いとやら。日頃飲む水の軽さ、重さ、荒さ、やはらかさが、自然とわたしたちの体質や気質にまで影響することはありさうに思はれる。その意味から言つて、伊香保がどことなく田舎めき、他の温泉地に見るやうな華美がすくなく、土地のものはむしろ昔ながらの質朴を誇つてゐるといふのも、偶然ではないかも知れない。

 山の湯たりとも人の発掘したものには相違ない。昔の人はこゝに神仏礼拝の霊場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯楽と運動の機関を結びつける。さういふ旧いものと新しいものとがこゝには同棲してゐる。二百年も以前から代々この地にあつて湯宿を営むことを誇りとし今だに本家分家の区別をやかましく言ふやうな古めかしさは、おそらく近代的なケエブル・カアの設備やその大仕掛な電気事業とよく調和しないやうなものであるが、それがこの温泉地にあつては左程の不調和でないのも不思議だ。まつたく、どこの温泉地にも見つけるやうな卑俗なものから、一切を洗ひきよめるやうな自然なものまでが一緒になつて、しかもその不調和を忘れさせるといふのも、温泉の徳であらう。

 旅に来ては口に合ふ食物もすくない。わたしたちのや
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