うに往復三日ぐらゐの予定で来て、山の見える旅館の二階にでも寝転んで行けばそれで満足するほどのものは、知らない土地へ来て何もそんなに多くを求めるではない。でも、何程わたしたちはこの短かい保養を楽みにしてやつて来たか知れない。せめて自分等の口に合ふ山家料理になりと有りつくことが出来たらばと思ふ。いそがしく物を煮て出さなければ成らないかうした湯宿なぞで、種々な好みも違へば、年齢も違ふ男女の客を相手に、誰をも満足させるやうな庖丁の使ひ分けや、塩加減といふものはあり得ないかも知れないのだ。しかし、山の蕨が膳に上る季節でありながら、それを甘辛《あまから》に煮つけてしまつたでは、折角の新鮮な山の物の風味に乏しい。惜しいことだ。これはわたしたちばかりでもないと見えて、伊香保へ入湯に出掛けた親戚のものなぞは皆それを言ふ。ともあれ、これほど楽みにしてやつて来て、快い温泉に身を浸すことが出来れば、それだけでもわたしたちには沢山だつた。わたしたちはまた、この温泉地に縁故の深い故徳冨蘆花君の噂なぞを土地のものから聞くだけにも満足して、帰りの土産には伊香保名物の粽《ちまき》、饅頭、それから東京の留守宅の方にわたしたちを待ち受けてゐて呉れる年寄のために木細工の刻煙草入なぞを求めた。
 山を降りる時のわたしたちの自動車には、一人の宿の女中をも乗せた。その女中は歯の療治に行きたいが、渋川まで一緒に乗せて行つては呉れまいかと言ふ。これも東海道の旅にはない図であつた。



底本:「日本の名随筆67・宿」作品社
   1988(昭和63)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「感想集 桃の雫」岩波書店
   1936(昭和11)年6月
入力:菅野朋子
校正:浦田伴俊
2000年12月12日公開
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