伊香保土産
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甘辛《あまから》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちよい/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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にはかに思ひ立つて伊香保まで出掛けた。日頃わたしは避暑の旅に出たこともなく、夏は殆んど東京の町中に暮してゐるが、そのかはり春蚕、秋蚕の後の骨休めを心掛ける農家の人達のやうに、自分の仕事の合間を見てはちよい/\小さな旅に出掛ける。わたしの足はよく湘南地方へ向く。湯河原あたりへはよく二三日の保養に出掛けて、あの温泉地で長い仕事の疲れを忘れて来る。これは僅かの時間で気軽に行き得るためでもある。ことしの六月、入梅の頃は、すこし山の方へ向きを変へた。それにわたしに取つては伊香保は初めてゞもあつた。
野外は麦の熟する頃で、ところ/″\に濃く青く密集して生長した苗代のあざやかなのも眼についたが、上野駅から高崎まで二時間半ばかりの平野の汽車旅はかなり単調な感じがする。その単調から救はれるのは、次第に近く山容をあらはして来る榛名、妙義、赤城なぞの山々の眺めである。いつ汽車で通つても、あの利根川の流域から上州の山々を望み見る感じは新鮮で、そして深い。あれは東海道辺から足柄連山を望むともちがつて、また別の趣がある。曾て七年の月日を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、あの上州の山々を汽車の窗から望んだことも忘れがたい。
伊香保は思つたほどの山の上でもなく、むしろ山の中腹の位置にあつて、直ぐにも親しめるやうな北向の谷間であるのもうれしかつた。七月八月はどの旅館も殆んど客で一ぱいと聞くに、わたしが僅かの暇を見つけてからだを養ひに行つたのはそんな入梅の季節だから、湯の客もすくない時であつた。でも、あゝした湯治場のさびしくひつそりとした時に行き合はせたのもわるくない。この伊香保行にはわたしはかねて籾山梓月君から贈られた伊香保日記を旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合巻としてあるもので、かねて非売品として知人の間に分けられたほどの心づくしの冊子であるが、自分にも贈つて貰つた時から最早五年の月日がたち、長いこと読み返して見る折もなく本箱の中にしまつて置いてあつたものだ。さすがに朝夕をおろそかにしない人の心を籠めて
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