み》が落《お》ちる時分《じぶん》でした。父《とう》さんはそれを拾《ひろ》ふのを樂《たのし》みにして、まだあの實《み》が青《あを》くて食《た》べられない時分《じぶん》から、早《はや》く紅《あか》くなれ早《はや》く紅《あか》くなれと言《い》つて待《ま》つて居《ゐ》ました。
爺《ぢい》やは山《やま》へも木《き》を伐《き》りに行《ゆ》くし畑《はたけ》へも野菜《やさい》をつくりに行《い》つて、何《なん》でもよく知《し》つて居《ゐ》ましたから、
『まだ榎木《えのき》の實《み》は澁《しぶ》くて食《た》べられません。もう少《すこ》しお待《ま》ちなさい。』とさう申《まを》しました。
父《とう》さんは榎木《えのき》の實《み》の紅《あか》くなるのが待《ま》つて居《ゐ》られませんでした。爺《ぢい》やが止《と》めるのも聞《き》かずに、馳出《かけだ》して木《き》の實《み》を拾《ひろ》ひに行《ゆ》きますと、高《たか》い枝《えだ》の上《うへ》に居《ゐ》た一|羽《は》の橿鳥《かしどり》が大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》しまして、
『早過《はやす》ぎた。早過《はやす》ぎた。』と鳴《な》きました。
父《とう》さんは、枝《えだ》に生《な》つて居《ゐ》るのを打《う》ち落《おと》すつもりで、石《いし》ころや棒《ぼう》を拾《ひろ》つては投《な》げつけました。その度《たび》に、榎木《えのき》の實《み》が葉《は》と一|緒《しよ》になつて、パラ/\パラ/\落《お》ちて來《き》ましたが、どれもこれも、まだ青《あを》くて食《た》べられないのばかりでした。
そのうちに復《ま》た父《とう》さんは出掛《でか》けて行《ゆ》きました。『大丈夫《だいぢやうぶ》、榎木《えのき》の實《み》はもう紅《あか》くなつて居《ゐ》る。』と安心《あんしん》して、ゆつくり構《かま》へて出掛《でか》けて行《ゆ》きました。木《き》の實《み》を拾《ひろ》ひに行《ゆ》きますと、高《たか》い枝《えだ》の上《うへ》に居《ゐ》た橿鳥《かしどり》がまた大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》しまして、 
『遲過《おそす》ぎた。遲過《おそす》ぎた。』と鳴《な》きました。
父《とう》さんは、しきりと木《き》の下《した》を探《さが》し廻《まは》りましたが、紅《あか》い榎木《えのき》の實《み》は一《ひと》つも見《み》つかりませんでした。ゆつくり出掛《でか》けて行《ゆ》くうちに、木《き》の下《した》に落《お》ちて居《ゐ》たのを皆《みん》な他《ほか》の子供《こども》に拾《ひろ》はれてしまひました。父《とう》さんがこの話《はなし》を爺《ぢい》やにしましたら、爺《ぢい》やがさう申《まを》しました。
『一度《いちど》はあんまり早過《はやす》ぎたし、一度《いちど》はあんまり遲過《おそす》[#ルビの「おそす」は底本では「はやす」]ぎました。丁度好《ちやうどい》い時《とき》を知《し》らなければ、好《い》い榎木《えのき》の實《み》は拾《ひろ》はれません。私《わたし》がその丁度好《ちやうどい》い時《とき》を教《をし》へてあげます。』と申《まを》しました。
ある朝《あさ》、爺《ぢい》やが父《とう》さんに『さあ早《はや》く拾《ひろ》ひにお出《いで》なさい、丁度好《ちやうどい》い時《とき》が來《き》ました。』と教《をし》へました。その朝《あさ》は風《かぜ》が吹《ふ》いて、榎木《えのき》の枝《えだ》が搖《ゆ》れるやうな日《ひ》でした。父《とう》さんが急《いそ》いで木《き》の下《した》へ行《ゆ》きますと、橿鳥《かしどり》が高《たか》い木《き》の上《うへ》からそれを見《み》て居《ゐ》まして、
『丁度好《ちやうどい》い。丁度好《ちやうどい》い。』と鳴《な》きました。
榎木《えのき》の下《した》には、紅《あか》い小《ちひ》さな球《たま》のやうな實《み》が、そこにも、こゝにも、一ぱい落《お》ちこぼれて居《ゐ》ました。父《とう》さんは木《き》の周圍《まはり》を廻《まは》つて、拾《ひろ》つても、拾《ひろ》つても、拾《ひろ》ひきれないほど、それを集《あつ》めて樂《たのし》みました。
橿鳥《かしどり》は首《くび》を傾《かし》げて、このありさまを見《み》て居《ゐ》ましたが、
『なんとこの榎木《えのき》の下《した》には好《い》い實《み》が落《お》ちて居《ゐ》ませう。澤山《たくさん》お拾《ひろ》ひなさい。序《ついで》に、私《わたし》も一《ひと》つ御褒美《ごはうび》を出《だ》しますよ。それも拾《ひろ》つて行《い》つて下《くだ》さい。』と言《い》ひながら青《あを》い斑《ぶち》の入《はい》つた小《ちい》さな羽《はね》を高《たか》い枝《えだ》の上《うへ》から落《おと》してよこしました。
父《とう》さんは榎木《えのき》の實《み》ばかりでなく、橿鳥《かしどり》の美《うつく》しい羽《はね》を拾《ひろ》ひ、おまけにその大《おほ》きな榎木《えのき》の下《した》で、『丁度好《ちやうどい》い時《とき》。』まで覺《おぼ》えて歸《かへ》つて來《き》ました。
 
   一九 木曾《きそ》の蠅《はい》

木曾《きそ》は蠅《はい》の多《おほ》いところです。
木曾《きそ》には毎年《まいとし》馬市《うまいち》が立《た》つくらゐに、諸方《はう/″\》で馬《うま》を飼《か》ひますから、それで蠅《はい》が多《おほ》いといひます。
蠅《はい》は何《なん》にでも行《い》つて取《と》りつきます。荷物《にもつ》をつけて通《とほ》る馬《うま》にも取《と》りつけば、旅人《たびびと》の着物《きもの》にも取《と》りつきます。蠅《はい》は誰《たれ》とでも直《す》ぐ懇意《こんい》になりますが、そのかはり誰《たれ》にでもうるさがられます。こんなうるさい蠅《はい》でも、道連《みちづ》れとなれば懐《なつ》かしく思《おも》はれたかして、木曾《きそ》の蠅《はい》のことを發句《ほつく》に讀《よ》んだ昔《むかし》の旅人《たびゞと》もありましたつけ。

   二○ 蚋《ぶよ》

似《に》て、違《ちが》ふもの――蠅《はい》と蚋《ぶよ》。蠅《はい》はうるさがられ、蚋《ぶよ》は恐《こは》がられて居《ゐ》ます。蚋《ぶよ》は人《ひと》をも馬《うま》をも刺《さ》します。あの長《なが》くて丈夫《ぢやうぶ》な馬《うま》の尻尾《しつぽ》の房々《ふさ/\》とした毛《け》は、蚋《ぶよ》を追《お》ひ拂ふ《はら》のに役《やく》に立《た》つのです。父《とう》さんが幼少《ちひさ》な時分《じぶん》に晝寢《ひるね》をして居《ゐ》ますと、どうかするとこの蚋《ぶよ》に食《く》はれることが有《あ》りました。その度《たび》に、お前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんが大《おほ》きな掌《てのひら》で、蚋《ぶよ》を打《う》ち懲《こら》して呉《く》れました。

   二一 木曾馬《きそうま》

木曾《きそ》のやうに山坂《やまさか》の多《おほ》いところには、その土地《とち》に適《てき》した馬《うま》があります。いくら體格《たいかく》の好《い》い立派《りつぱ》な馬《うま》でも、平地《へいち》にばかり飼《か》はれた動物《どうぶつ》では、木曾《きそ》のやうな土地《とち》には適《てき》しません。そこで、石《いし》ころの多《おほ》い坂路《さかみち》を歩《ある》いても疲《つか》れないやうな強《つよ》い脚《あし》の力《ちから》が、木曾生《きそうま》れの馬《うま》には自然《しぜん》と具《そな》はつて居《ゐ》るのです。
木曾馬《きそうま》は小《ちひさ》いが、足腰《あしこし》が丈夫《ぢやうぶ》で、よく働《はたら》くと言《い》つて、それを買《か》ひに來《く》る博勞《ばくらう》が毎年《まいねん》諸國《しよこく》から集《あつ》まります。博勞《ばくらう》とは馬《うま》の賣買《うりかひ》を商賣《しやうばい》にする人《ひと》のことです。木曾《きそ》の山地《さんち》に育《そだ》つた眼付《めつき》の可愛《かあい》らしい動物《どうぶつ》がその博勞《ばくらう》に引《ひ》かれながら、諸國《しよこく》へ働《はたら》きに出《で》るのです。

   二二 御嶽參《おんたけまゐ》り

『チリン/\。チリン/\。』
山《やま》が夏《なつ》らしくなると、鈴《すゞ》の音《おと》が聞《きこ》えるやうに成《な》ります。御嶽山《おんたけさん》に登《のぼ》らうとする人達《ひとたち》が幾組《いくくみ》となく父さんのお家《うち》の前《まへ》を通《とほ》るのです。馬《うま》に乘《の》るか、籠《かご》に乘《の》るか、さもなければ歩《ある》いて旅《たび》をした以前《いぜん》の木曾街道《きそかいだう》の時分《じぶん》には、父《とう》さんの生《うま》れた神坂村《みさかむら》も驛《えき》の名《な》を馬籠《まごめ》と言《い》ひました。汽車《きしや》や電車《でんしや》の着《つ》くところが今日《こんにち》のステエシヨンなら、馬《うま》や籠《かご》の着《つ》いた父《とう》さんの村《むら》は昔《むかし》の木曾街道《きそかいだう》時分《じぶん》のステエシヨンのあつたところです。ほら、何々《なに/\》の驛《えき》といふことをよく言《い》ふでは有《あ》りませんか。木曾《きそ》の山《やま》の中《なか》にあつた小《ちひ》さな馬籠驛《まごめえき》でも、言葉《ことば》の意味《いみ》に變《かは》りは無《な》いのです。丁度《ちやうど》、お隣《とな》りで美濃《みの》の國《くに》の方《はう》から木曽路《きそぢ》へ入《はひ》らうとする旅人《たびびと》のためには、一番《いちばん》最初《さいしよ》の入口《いりぐち》のステエシヨンにあたつて居《ゐ》たのが馬籠驛《まごめえき》です。
御嶽參《おんたけまゐ》りが西《にし》の方《はう》から斯《こ》の木曾《きそ》の入口《いりくち》に着《つ》くには、六曲峠《ろくきよくたうげ》といふ峠《たうげ》を越《こ》して來《こ》なければなりません。そこが信濃《しなの》と美濃《みの》の國境《くにざかひ》で、父《とう》さんの村《むら》のはづれに當《あた》つて居《ゐ》ます。馬籠《まごめ》の驛《えき》まで來《く》れば御嶽山《おんたけさん》はもう遠《とほ》くはない、そのよろこびが皆《みんな》の胸《むね》にあるのです。あの白《しろ》い着物《きもの》に、白《しろ》い鉢巻《はちまき》をした山登《やまのぼ》りの人達《ひとたち》が、腰《こし》にさげた鈴《りん》をちりん/\鳴《な》らしながら多勢《おほぜい》揃《そろ》つて通《とほ》るのは、勇《いさま》しいものでした。

   二三 芭蕉翁《ばせをおう》の石碑《せきひ》

お前達《まへたち》は芭蕉翁《ばせをおう》の名《な》を聞《き》いたことが有《あ》りませう。あの芭蕉翁《ばせをおう》の木曾《きそ》で讀《よ》んだ發句《ほつく》が石《いし》に彫《ほ》りつけてあります。その古《ふる》い石碑《せきひ》が馬籠《まごめ》の村《むら》はづれに建《た》てゝあります。美濃《みの》の國境《くにざかひ》に近《ちか》いところに、それがあります。
『朝《あさ》を思《おも》ひ、また夕《ゆふ》を思《おも》ふべし。』
と芭蕉翁《ばせをおう》は教《をし》へた人《ひと》です。

   二四 お百草《ひやくさう》

御嶽山《おんたけさん》の方《はう》から歸《かへ》る人達《ひとたち》は、お百草《ひやくさう》といふ藥《くすり》をよく土産《みやげ》に持《も》つて來《き》ました。お百草《ひやくさう》は、あの高《たか》い山《やま》の上《うへ》で採《と》れるいろ/\な草《くさ》の根《ね》から製《せい》した練藥《ねりぐすり》で、それを竹《たけ》の皮《かは》の上《うへ》に延《の》べてあるのです。苦《にが》い/\藥《くすり》でしたが、お腹《なか》の痛《いた》い時《とき》なぞにそれを飮《の》むとすぐなほりました。お藥《くすり》はあんな高《たか》い山《やま》の土《つち》の中《なか》にも藏《しま》つてあるのですね。

   二五 檜木笠《ひのきかさ》

麥藁《むぎわら》でさへ帽子《ばうし》が出來《でき》るのに、檜木《ひのき》で笠《かさ》が造《つく》れるのは不思議《ふしぎ》でもありません。
木曾《きそ》は檜木《ひのき》[#「檜木
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