げに行《い》つた事《こと》を覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。湯舟澤《ゆぶねざは》といふ方《はう》へ寄《よ》つた山《やま》のはづれに、山《やま》の神《かみ》さまが祭《まつ》つてありました。その小《ちひ》さな祠《やしろ》の前《まへ》に、米《こめ》の粉《こ》で造《つく》つたお餅《もち》をあげて來《き》ました。その邊《へん》は、どつちを向《む》いても深《ふか》い山《やま》ばかりで、爺《ぢい》やにでも隨《つ》いて行《ゆ》かなければ、とても幼少《ちひさ》な時分《じぶん》の父《とう》さんが獨《ひと》りで行《ゆ》かれるところではありませんでした。
山《やま》や林《はやし》は父《とう》さんの故郷《ふるさと》です。父《とう》さんのやうに大《おほ》きくなつても、忘《わす》れずに居《ゐ》るのは、その故郷《ふるさと》です。父《とう》さんは爺《ぢい》やに連《つ》れられて深《ふか》い林《はやし》の方《はう》へも行《い》つて見《み》ました。そこへ行《ゆ》くと爺《ぢい》やの伐《き》つた木《き》がありました。松葉《まつば》の積《つ》んだのもありました。爺《ぢい》やはその木《き》を背負《しよ》つたり、松葉《まつば》を背負《しよ》つたりして、お家《うち》の木小屋《きごや》の方《はう》へ歸《かへ》つて來《く》るのでした。
この爺《ぢい》やは庄吉《しようきち》といふ名《な》で、父《とう》さんの生《うま》れない前《まへ》からお家《うち》に奉公《ほうこう》して居《ゐ》ました。
『よ、どつこいしよ。』
と爺《ぢい》やは山《やま》からかついで來《き》た木《き》をおろしました。木小屋《きごや》のなかでそれを割《わ》りました。この爺《ぢい》やの大《おほ》きな手《て》は寒《さむ》くなると、皸《あかぎれ》が切《き》れて、まるで膏藥《かうやく》だらけのザラ/\とした手《て》をして居《ゐ》ましたが、でもその心《こゝろ》は正直《しやうぢき》な、そして優《やさ》しい老人《らうじん》でした。
爺《ぢい》やは山《やま》から伐《き》つて來《き》た木《き》を木小屋《きごや》にしまつて置《お》いて、焚《たき》つけにする松葉《まつば》もしまつて置《お》いて、要《い》るだけづゝお家《うち》の爐邊《ろばた》へ運《はこ》びました。赤々《あか/\》とした火《ひ》が毎日《まいにち》爐邊《ろばた》で燃《も》えました。曾祖母《ひいばあ》さん、祖父《おぢい》さん、祖母《おばあ》さん、伯父《おぢ》さん、伯母《おば》さんの顏《かほ》から、奉公《ほうこう》するお雛《ひな》の顏《かほ》まで、家中《うちぢう》のものゝ顏《かほ》は焚火《たきび》に赤《あか》く映《うつ》りました。その樂《たのし》い爐邊《ろばた》には、長《なが》い竹《たけ》の筒《つゝ》とお魚《さかな》の形《かた》と繩《なは》とで出來《でき》た煤《すゝ》けた自在鍵《じざいかぎ》が釣《つ》るしてありまして、大《おほ》きなお鍋《なべ》で物《もの》を煮《に》る塲所《ばしよ》でもあり家中《うちぢう》集《あつ》まつて御飯《ごはん》を食《た》べる塲所《ばしよ》でもありました。父《とう》さんの田舍《ゐなか》では寒《さむ》くなると毎朝《まいあさ》芋焼餅《いもやきもち》といふものを燒《や》いて、朝《あさ》だけ御飯《ごはん》のかはりに食《た》べました。蕎麥《そば》の粉《こ》に里芋《さといも》の子《こ》をまぜて造《つく》つたその燒餅《やきもち》の焦《こ》げたところへ大根《だいこん》おろしをつけて焚火《たきび》にあたりながらホク/\食《た》べるのは、どんなにおいしいでせう。その蕎麥《そば》の香《にほ》ひのする燒《や》きたてのお餅《もち》の中《なか》から大《おほ》きな里芋《さといも》の子《こ》なぞが白《しろ》く出《で》て來《き》た時《とき》は、どんなに嬉《うれ》しいでせう。爺《ぢい》やは御飯《ごはん》の時《とき》でも、なんでも、草鞋《わらぢ》ばきの土足《どそく》のまゝで爐《ろ》の片隅《かたすみ》に足《あし》を投《な》げ入《い》れましたが、夕方《ゆふがた》仕事《しごと》の濟《す》む頃《ころ》から草鞋《わらぢ》をぬぎました。爐邊《ろばた》にある古《ふる》い屏風《べうぶ》の側《わき》が爺《ぢい》やの夜《よ》なべをする塲所《ばしよ》ときまつて居《ゐ》ました。爺《ぢい》やはその屏風《べうぶ》の側《わき》に新《あたら》しい藁《わら》なぞを置《お》いて、父《とう》さんのために小《ちひ》さな草履《ざうり》を造《つく》つたり、自分《じぶん》ではく草鞋《わらぢ》を造《つく》つたりしました。爺《ぢい》やのお伽話《とぎばなし》はその時《とき》に始《はじ》まるのでした。
父《とう》さんはこの好《す》きな老人《らうじん》から、畠《はたけ》よりあらはれた狸《たぬき》や狢《むじな》の話《はなし》、山《やま》で飛《と》び出《だ》した雉《きじ》の話《はなし》、それから奧山《おくやま》の方《はう》に住《す》むといふ恐《おそ》ろしい狼《おほかみ》や山犬《やまいぬ》の話《はなし》なぞを聞《き》きましたが、そのうちに眠《ねむ》くなつて、爺《ぢい》やの話《はなし》を聞《き》きながら爐邊《ろばた》でよく寢《ね》てしまひました。
一二 草摘《くさつ》みに
父《とう》さんの幼少《ちひさ》な時分《じぶん》には、お錢《あし》といふものを持《も》たせられませんでしたから、それが癖《くせ》になつて、お錢《あし》は子供《こども》の持《も》つものでないと思《おも》つて居《ゐ》ましたし、巾着《きんちやく》からお錢《あし》を出《だ》して自分《じぶん》の好《す》きなものを買《か》ふことも知《し》りませんでした。お家《うち》からお錢《あし》を貰《もら》つて行《い》つて何《なに》か買《か》ふのは、村《むら》の祭禮《おまつり》の時《とき》ぐらゐのものでした。
そのかはり、お庭《には》にある柿《かき》や梨《なし》なぞが生《な》りたての新《あたら》しい果物《くだもの》を父《とう》さんに御馳走《ごちそう》して呉《く》れました。祖母《おばあ》さんが朴《ほほ》の木《き》の葉《は》で包《つゝ》んで下《くだ》さる※[#「熱」の左上が「幸」、50−3]《あつ》い握飯《おむすび》の香《にほひ》でも嗅《か》いだ方《はう》が、お錢《あし》を出《だ》して買《か》つたお菓子《くわし》より餘程《よほど》おいしく思《おも》ひました。お家《うち》の外《そと》を歩《ある》き廻《まは》つても、石垣《いしがき》のところには黄色《きいろ》い木苺《きいちご》の實《み》が生《な》つて居《ゐ》るし、竹籔《たけやぶ》のかげの高《たか》い榎木《えのき》の下《した》には、香《かん》ばしい小《ちひ》さな實《み》が落《お》ちて居《ゐ》ました。村《むら》のはづれには「けんぽ梨《なし》」といふ木《き》もあつて、高《たか》い枝《えだ》の上《うへ》に珊瑚珠《さんごじゆ》のやうな實《み》が生《な》る時分《じぶん》には木曽路《きそぢ》を通《とほ》る旅人《たびびと》はめづらしさうに仰向《あうむ》いて見《み》て行《ゆ》きましたが、その實《み》も取《と》れば食《た》べられて甘《うま》い味《あぢ》がしました。そればかりではありません、山《やま》にある木《き》の葉《は》、田圃《たんぼ》にある草《くさ》の中《なか》にも『食《た》べられるからおあがり。』と言《い》つてくれるのもありました。
「スイ葉《は》」と言《い》つて、青《あを》い木《き》の葉《は》の生《なま》で食《た》べられるものもありました。草《くさ》では「いたどり」や「すいこぎ」が食《た》べられましたが、あの「すいこぎ」の莖《くき》を採《と》つて來《き》てお家《うち》で鹽漬《しほづけ》をして遊《あそ》ぶこともありました。
『手《て》をお出《だ》し。私《わたし》もおいしいものを上《あ》げますよ。』
父《とう》さんが石垣《いしがき》の側《そば》を通《とほ》る度《たび》に、蛇苺《へびいちご》が左樣《さう》言《い》つては父《とう》さんを誘《さそ》ひました。蛇苺《はびいちご》は毒《どく》だと言《い》ひます。それを父《とう》さんも聞《き》いて知《し》つて居《ゐ》ました。あの眼《め》のさめるやうな紅《あか》い蛇苺《へびいちご》の實《み》が甘《うま》いことを言《い》つてよく父《とう》さんを誘《さそ》ひましたが、そればかりは觸《さは》りませんでした。
父《とう》さんの幼少《ちひさ》い時分《じぶん》に抱《だ》いたり背負《おぶ》つたりして呉《く》れたお雛《ひな》は、斯《か》ういふ山家《やまが》に生《うま》れた女《をんな》でした。筍《たけのこ》の皮《かは》を三|角《かく》に疊《たゝ》んで、中《なか》に紫蘇《しそ》の葉《は》の漬《つ》けたのを入《い》れて、よくそれを父《とう》さんに呉《く》れたのもお雛《ひな》でした。それを吸《す》へば紫蘇《しそ》の味《あぢ》がして、チユー/\吸《す》ふうちに、だん/\筍《たけのこ》の皮《かは》が赤《あか》く染《そま》つて來《く》るのも嬉《うれ》しいものでした。このお雛《ひな》は村《むら》の髮結《かみゆひ》の娘《むすめ》でした。お雛《ひな》のお父《とう》さんは數衛《かずゑ》といふ名《な》で、男《をとこ》の髮結《かみゆひ》でしたが、村中《むらぢう》で一|番《ばん》汚《きたな》いといふ評判《ひやうばん》の人《ひと》でした。その汚《きたな》い髮結《かみゆひ》の家《いへ》のお雛《ひな》に育《そだ》てられると言《い》つて、父《とう》さんは人《ひと》に調戯《からかは》れたものです。
『やあ數衛《かずゑ》の子《こ》だ。』
こんなことを言《い》つて惡戯好《いたづらず》きな人達《ひとたち》は父《とう》さんまで汚《きたな》い髮結《かみゆひ》の子《こ》にしてしまひました。しかし、お雛《ひな》は幼少《ちひさ》い時分《じぶん》の父《とう》さんをよく見《み》て呉《く》れました。お雛《ひな》の歌《うた》ふ子守唄《こもりうた》は父《とう》さんの一|番《ばん》好《す》きな唄《うた》でした。それを聞《き》きながら、父《とう》さんはお雛《ひな》の背中《せなか》で寢《ね》てしまふこともありました。
父《とう》さんが獨《ひと》りでそこいらを遊《あそ》び廻《まは》る時分《じぶん》にはお雛《ひな》に連《つ》れられてよく蓬《よもぎ》を摘《つ》みに行《い》つたこともあります。あたゝかい日《ひ》の映《あた》つた田圃《たんぼ》の側《そば》で、蓬《よもぎ》を摘《つ》むのは樂《たのし》みでした。それをお家《うち》へ持《も》つて歸《かへ》つて來《き》て、臼《うす》でつけば草餅《くさもち》が出來《でき》ました。
一三 燕《つばめ》の來《く》る頃《ころ》
燕《つばめ》の來《く》る頃《ころ》でした。
澤山《たくさん》な燕《つばめ》が父《とう》さんの村《むら》へも飛《と》んで來《き》ました。一|羽《は》、二|羽《は》、三|羽《ば》、四|羽《は》――とても勘定《かんぢやう》することの出來《でき》ない何《なん》十|羽《ぱ》といふ燕《つばめ》が村《むら》へ着《つ》いたばかりの時《とき》には、直《す》ぐに人家《じんか》へ舞《ま》ひ降《お》りようとはしません。離《はな》れさうで離《はな》れない燕《つばめ》の群《むれ》は、細長《ほそなが》い形《かたち》になつたり、圓《まる》い輪《わ》の形《かたち》になつたりして、村《むら》の空《そら》の高《たか》いところを揃《そろ》つて舞《ま》つて居《ゐ》ます。そのうちに一|羽《は》空《そら》から舞《ま》ひ降《お》りたかと思《おも》ふと、何《なん》十|羽《ぱ》といふ燕《つばめ》が一|時《じ》に村《むら》へ降《お》りて來《き》ます。そして互《たがひ》に嬉《うれ》しさうな聲《こゑ》で鳴《な》き合《あ》つて、舊《ふる》い馴染《なじみ》の軒塲《のきば》を尋《たづ》ね顏《がほ》に、思《おも》ひ/\に分《わか》れて飛《と》んで行《ゆ》きます。父《とう》さんのお家《うち》へ飛《と》んで行《ゆ》くのもあれば、お隣《となり》の大黒屋《だいこくや》へ飛《と》んで行《ゆ》くのもあれば、そのまた一|軒《けん》置《お》いてお
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