りましたが、その度《たび》に父《とう》さん達《たち》は坂《さか》になつた村《むら》の道《みち》を峠《たうげ》の上《うへ》の方《はう》へ登《のぼ》つて行《い》きました。
馬籠《まごめ》の村《むら》はづれまで出《で》ますと、その峠《たうげ》の上《うへ》の高《たか》いところにも耕《たがや》した畠《はたけ》がありました。そこにも伯父《をぢ》さんに聲《こゑ》を掛《か》けるお百姓《ひやくしやう》がありました。父《とう》さんが遊《あそ》び廻《まは》つた谷間《たにま》と、谷間《たにま》の向《むか》ふの林《はやし》も、その邊《へん》からよく見《み》えました。山《やま》と山《やま》の重《かさ》なり合《あ》つた向《むか》ふの方《はう》には、祖父《おぢい》さんの好《す》きな惠那山《ゑなざん》が一|番《ばん》高《たか》い所《ところ》に見《み》えました。祖父《おぢい》さんも、祖母《おばあ》[#「祖母」は底本では「祖毎」]さんも、さやうなら。馬籠《まごめ》も、さやうなら。惠那山《えなざん》も、さやうなら。
六〇 峠《たうげ》の馬《うま》の挨拶《あいさつ》
馬籠《まごめ》の村《むら》はづれには、杉《すぎ》の木《き》の生《は》えた澤《さは》を境《さかひ》にしまして、別《べつ》に峠《たうげ》といふ名前《なまへ》の小《ちい》さな村《むら》があります。この峠《たうげ》に、馬籠《まごめ》に、湯舟澤《ゆぶねざは》と、それだけの三《さん》ヶ村《そん》を一緒《いつしよ》にして神坂村《みさかむら》と言《い》ひました。
『名物《めいぶつ》、栗《くり》こはめし――御休處《おやすみどころ》。』
こんな看板《かんばん》を掛《か》けた家《うち》が一|軒《けん》しかない程《ほど》、峠《たうげ》は小《ちい》さな村《むら》でした。そこに住《す》む人達《ひとたち》はいづれも山《やま》の上《うへ》を耕《たがや》すお百姓《ひやくしやう》ばかりでした。その村《むら》にも伯父《をぢ》さんが寄《よ》つて挨拶《あいさつ》して行《ゆ》く家《うち》がありましたが、入口《いりぐち》の柱《はしら》のところに繋《つな》がれて居《ゐ》た馬《うま》は父《とう》さん達《たち》の方《はう》を見《み》まして、
『お揃《そろ》ひで、東京《とうきやう》の方《はう》へお出掛《でか》けですか。』[#底本では始めと終わりの二重かぎ括弧が脱字]
と聲《こゑ》を掛《か》けました。この馬《うま》は背中《せなか》に荷物《にもつ》をつけて父《とう》さんのお家《うち》へ來《き》たこともある馬《うま》でした。
やがて父《とう》さんは伯父《をぢ》さんの後《あと》に附《つ》いて、めづらしい初旅《はつたび》に上《のぼ》りました。父《とう》さんが歩《ある》いて行《ゆ》く道《みち》を木曽路《きそぢ》とも、木曾街道《きそかいだう》ともいふ道《みち》でした。
六一 初旅《はつたび》
『もし/\、お前《まへ》さんの草履《ざうり》の紐《ひも》が解《と》けて居《ゐ》ますよ。』
と路《みち》ばたに咲《さ》いて居《ゐ》た龍膽《りんだう》の花《はな》が父《とう》さんに聲《こゑ》を掛《か》けて呉《く》れました。龍膽《りんだう》は桔梗《ききやう》に似《に》た小《ちい》さな草花《くさばな》で、よく山道《やまみち》なぞに咲《さ》いて居《ゐ》るのを見《み》かけるものです。
父《とう》さんがその小《ちい》さな紫《むらさき》いろの花《はな》の前《まへ》で自分《じぶん》の草履《ざうり》の紐《ひも》を結《むす》ばうとして居《を》りますと、伯父《をぢ》さんは父《とう》さんの側《そば》へ來《き》て、腰《こし》を曲《こゞ》めて手傳《てつだ》つて呉《く》れました。慣《な》れない旅《たび》ですから、おまけに馬籠《まごめ》から隣村《となりむら》の妻籠《つまご》へ行《ゆ》く二|里《り》の間《あひだ》は石《いし》ころの多《おほ》い山道《やまみち》ですから、父《とう》さんの草履《ざうり》の紐《ひも》はよく解《と》けました。その度《たび》に伯父《をぢ》さんが足《あし》をとめては紐《ひも》を結《むす》んで呉《く》れました。
六二 木曽川《きそがは》
隣村《となりむら》の妻籠《つまご》には、お前達《まへたち》の祖母《おばあ》[#「祖母」は底本では「祖毎」]さんの生《うま》れたお家《うち》がありました。妻籠《つまご》の祖父《おぢい》さんといふ人もまだ達者《たつしや》な時分《じぶん》で、父《とう》さん達《たち》をよろこんで迎《むか》へて呉《く》れました。そこで、初《はじめ》の日《ひ》は妻籠《つまご》に泊《とま》りまして翌朝《よくあさ》また伯父《をぢ》[#ルビの「をぢ」は底本では「おぢ」]さんに連《つ》れられて出掛《でか》けました。
妻籠《つまご》の吾妻橋《あづまばし》といふ橋《はし》の手前《てまへ》まで行《い》きますと、鶺鴒《せきれい》が飛《と》んで居《ゐ》ました。その鶺鴒《せきれい》はあつちの大《おほ》きな岩《いは》の上《うへ》[#ルビの「うへ」は底本では「う」]へ飛《と》んだり、こつちの大《おほ》きな岩《いは》の上《うへ》へ飛《と》んだりして、
『どうです。妻籠《つまご》には大《おほ》きな川《かは》があるでせう。』
と言《い》つて見《み》せました。
父《とう》さんも、そんな大《おほ》きな川《かは》を見《み》るのは初《はじ》めてでした。青《あを》い、どろんとした水《みづ》は渦《うづ》を卷《ま》いて、大《おほ》きな岩《いは》の間《あひだ》を流《なが》れて居《ゐ》ました。
『これが木曽川《きそがは》ですか。』
と父《とう》さんが尋《たづ》ねましたら、鶺鴒《せいきれ》は尻尾《しつぽ》を振《ふ》つて、
『いえ、これは蘭《あらゝぎ》の山奧《やまおく》の方《はう》から流《なが》れて來《く》る川《かは》です。木曽川《きそがは》へ入《はい》る川《かは》です。』
と教《をし》へて呉れました。
吾妻橋《あづまばし》の手前《てまへ》で見《み》た川《かは》が大《おほ》きいと思《おも》ひましたら、木曽川《きそがは》はそれよりも大《おほ》きな川《かは》でした。
六三 御休處《おんやすみどころ》
何《なん》といふ深《ふか》い山《やま》や谷《たに》が父《とう》さんの行《ゆ》く先《さき》にありましたらう。父《とう》さんは木曽川《きそがは》の見《み》える谷間《たにあひ》について、林《はやし》の中《なか》を歩《ある》いて行《ゆ》くやうなものでした。どうかすると晝間《ひるま》でも暗《くら》いやうな檜木《ひのき》や杉《すぎ》のしん/\と生《は》えて居《ゐ》るところを通《とほ》ることもありました。あゝこれが三留野《みとめの》といふところか、これが須原《すはら》といふところか、と思《おも》ひまして、初《はじ》めて見《み》る村々《むら/\》が父《とう》さんにはめづらしく思《おも》はれました。何《なに》もかも父《とう》さんには初《はじ》めてゞした。高《たか》い山《やま》の上《うへ》の方《はう》から村《むら》はづれの街道《かいだう》のところまで押《お》し寄《よ》せて來《き》て居《ゐ》る黒《くろ》い岩《いは》だの石《いし》だのを見《み》るのも初《はじ》めてゞした。
父《とう》さんが東京《とうきやう》へ出《で》る時分《じぶん》には、鐵道《てつだう》のない頃《ころ》ですから、是非《ぜひ》とも木曽路《きそぢ》を歩《ある》かなければ成《な》りませんでした。もう好《い》い加減《かげん》歩《ある》いて行《い》つて、谷《たに》がお仕舞《しまひ》になつたかと思《おも》ふ時分《じぶん》には、また向《むか》ふの方《はう》の谷間《たにま》の板屋根《いたやね》から煙《けむり》の立《た》ち登《のぼ》るのが見《み》えました。さういふ煙《けむり》の見《み》えるところにかぎつて、旅人《たびびと》の腰掛《こしか》けて休《やす》んで行《ゆ》く休茶屋《やすみぢやや》がありました。
『御休處《おんやすみどころ》』
として、白《しろ》いところに黒《くろ》い太《ふと》い字《じ》で書《か》いてある看板《かんばん》は、父《とう》さん達《たち》にも寄《よ》つて休《やす》んで行《ゆ》けと言《い》ふやうに見《み》えました。さういふ休茶屋《やすみぢやや》には、きまりで『御嶽講《おんたけかう》』の文字《もじ》を染《そ》めぬいた布《きれ》がいくつも軒下《のきした》に釣《つ》るしてありました。
樂《たの》しい御休處《おんやすみどころ》。父《とう》さんが祖母《おばあ》さんから貰《もら》つて來《き》た金米糖《こんぺいたう》なぞを小《ちひ》さな鞄《かばん》から取出《とりだ》すのも、その御休處《おんやすみどころ》でした。塲處《ばしよ》によりましては、冷《つめた》い清水《しみづ》が樋《とひ》をつたつて休茶屋《やすみぢやや》のすぐ側《わき》へ流《なが》れて來《き》て居《ゐ》ます。さういふ清水《しみづ》はいくらでも父《とう》さんに飮《の》ませて呉《く》れました。
六四 寢覺《ねざめ》の蕎麥屋《そばや》
寢覺《ねざめ》といふところには名高《なだか》い蕎麥屋《そばや》がありました。
木曽路《きそぢ》を通《とほ》るもので、その蕎麥屋《そばや》を知《し》らないものはないと、伯父《をぢ》さんが父《とう》さん達《たち》に話《はな》して呉《く》れました。そこは蕎麥屋《そばや》とも思《おも》へないやうな家《うち》でした。多勢《おほぜい》の旅人《たびびと》が腰掛《こしか》けて、めづらしさうにお蕎麥《そば》のおかはりをして居《ゐ》ました。伯父《をぢ》さんは父《とう》さん達《たち》にも山《やま》のやうに盛《も》りあげたお蕎麥《そば》を奢《をご》りまして、草臥《くたぶ》れて行《ゆ》つた足《あし》を休《やす》ませて呉《く》れました。
六五[#「五」は底本では「七」] 浦島太郎《うらしまたらう》の釣竿《つりざを》
寢覺《ねざめ》には、浦島太郎《うらしまたらう》の釣竿《つりざを》といふものが有《あ》りました。それも伯父《をぢ》さんの話《はな》して呉《く》れたことですが、浦島太郎《うらしまたらう》の釣《つり》をしたといふ岩《いは》もありました。それから、あの浦島太郎《うらしまたらう》が龍宮《りうぐう》から歸《かへ》つて來《き》まして自分《じぶん》の姿《すがた》をうつして見《み》たといふ池《いけ》もありました。
木曾《きそ》の人《ひと》は昔《むかし》からお伽話《とぎばなし》が好《す》きだつたと見《み》えますね。岩《いは》にも、池《いけ》にも、釣竿《つりざを》にも、こんなお伽話《とぎばなし》が殘《のこ》つて、それを昔《むかし》から言《い》ひ傳《つた》へて居《ゐ》ます。
六六 棧橋《かけはし》の猿《さる》
『もし/\、お前《まへ》さんの背中《せなか》に負《しよ》つて居《ゐ》るのは何《なん》ですか。』
木曾《きそ》の棧橋《かけはし》といふところの休茶屋《やすみぢやや》に飼《か》つてあるお猿《さる》さんが、そんなことを父《とう》さんに尋ね《たづ》ねました。
父《とう》さんは小《ちひ》さな鞄《かばん》を風呂敷包《ふろしきづゝみ》にしまして、それを自分《じぶん》の背中《せなか》に負《しよ》つて居《ゐ》ましたから、
『お猿《さる》さん、これは祖母《おばあ》さんがおせんべつに呉《く》れてよこしたのです。途中《とちう》で退屈《たいくつ》した時《とき》におあがりと言《い》つて、祖母《おばあ》さんが呉《く》れてよこした金米糖《こんぺいたう》です。わたしはこれから東京《とうきやう》へ修業《しうげふ》に行《ゆ》くところですが、この棧橋《かけはし》まで來《く》るうちに、金米糖《こんぺいたう》も大分《だいぶ》すくなくなりました。』
とお猿《さる》さんに話《はな》して聞《き》かせました。
このお猿《さる》さんの飼《か》つてあるところは高《たか》い崖《がけ》の下《した》でした。橋《はし》の下《した》を流《なが》れる木曽川《きそがは》がよく見《み》えて、深《ふか》い山《やま》の中《なか》らしい、景色《けしき》の好《い》いところ
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