供《こども》らしい帶地《おびぢ》とを根氣《こんき》に織《お》つて呉《く》れました。
『トン/\ハタリ、トンハタリ。』
その祖母《おばあ》さんのおせんべつが織《お》れる時分《じぶん》には、父《とう》さんが生《うま》れて初《はじ》めての旅《たび》に出《で》る時《とき》も近《ちか》くなつて來《き》ました。
祖父《おぢい》さんは、父《とう》さんに書《か》いた物《もの》を呉《く》れました。好《す》きな燒米《やきごめ》でも食《た》べながら田舍《ゐなか》[#ルビの「ゐなか」は底本では「ゐか」]で本《ほん》を讀《よ》まうといふ祖父《おぢい》さんのことですから、父《とう》さんが東京《とうきやう》へ行《い》つてから時々《とき/″\》出《だ》して見《み》るやうにと言《い》ひまして、少年《せうねん》のためになるやうな教訓《をしへ》を七|枚《まい》ばかりの短冊《たんざく》に書《か》いて呉《く》れました。[#底本では「。」が脱字]それを紙《かみ》に包《つゝ》みまして、紙《かみ》の上《うへ》にも父《とう》さんを送《おく》る言葉《ことば》を書《か》いて呉《く》れました。
『これは大事《だいじ》にして置《お》くがいゝ。東京《とうきやう》へ行《い》つたら、お前《まへ》の本箱《ほんばこ》のひきだしにでも入《い》れて置《お》くがいゝ。』
と言《い》つて呉《く》れました。それが祖父《おぢい》さんのおせんべつでした。
五七 伯父《をぢ》さんの床屋《とこや》
東京《とうきやう》をさして學問《がくもん》に行《ゆ》かうといふ頃《ころ》の友伯父《ともをぢ》さんも、父《とう》さんも、まだ二人《ふたり》とも馬籠風《まごめふう》に髮《かみ》を長《なが》くして居《ゐ》ました。友伯父《ともをぢ》さんはもう十二|歳《さい》でしたから、そんな山《やま》の中《なか》の子供《こども》のやうな髮《かみ》をして行つて東京《とうきやう》で笑《わら》はれては成《な》らないと、お家《うち》の人達《ひとたち》が言《い》ひました。
そこで友伯父《ともをぢ》さんだけは頭《あたま》を五|分刈《ぶがり》にして行《ゆ》くことに成《な》りました。[#底本では「。」が脱字]ところが、村《むら》には床屋《とこや》といふものが有《あ》りません。仕方《しかた》なしに、伯父《をぢ》さんが裏《うら》の桐《きり》の木《き》の下《した》へ友伯父《ともをぢ》さんを連《つ》れて行《ゆ》きまして、伯父《をぢ》さんが自分《じぶん》で床屋《とこや》をつとめました。
面白《おもしろ》い床屋《とこや》がそこへ出來《でき》ました。腰掛《こしかけ》はお家《うち》の踏臺《ふみだい》で間《ま》に合《あ》ひ、胸《むね》に掛《か》ける布《きれ》は大《おほ》きな風呂敷《ふろしき》で間《ま》に合《あ》ひました。床屋《とこや》をつとめる伯父《をぢ》さんの鋏《はさみ》は、祖母《おばあ》さん達《たち》が針仕事《はりしごと》をする時《とき》に平常《ふだん》使《つか》ふ鋏《はさみ》でした。
この伯父《をぢ》さんは若《わか》い時分《じぶん》から神坂村《みさかむら》の村長《そんちやう》をつとめたくらゐの人《ひと》でしたが、なにしろ床屋《とこや》の方《はう》は素人《しろうと》でしたから、友伯父《ともをぢ》さんの髮《かみ》をヂヨキ/\とやるうちに、長《なが》いところと短《みじか》いところが出來《でき》て、すつかり奇麗《きれい》に刈《か》りあげるのはなか/\大變《たいへん》な仕事《しこと》でした。
鷄《にはとり》は驚《おどろ》いて、桐《きり》の木《き》の下《した》に頭《あたま》をさげて居《ゐ》る友伯父《ともをぢ》さんの方《はう》へ飛《と》んで來《き》ました。そして、髮《かみ》を刈《か》つて貰《もら》つて居《ゐ》る友伯父《ともをぢ》さんの側《わき》で鳴《な》きました。長《なが》いことお馴染《なじみ》の友伯父《ともをぢ》さんが東京《とうきやう》へ行《い》つてしまふので、お家《うち》の鷄《にはとり》もお別《わか》れを惜《をし》んで居《ゐ》たのでせう。
五八 お別《わか》れ
山家《やまが》では何《なに》かある度《たび》にお客《きやく》さまをして、互《たがひ》に呼《よ》んだり呼《よ》ばれたりします。[#底本では「。」が脱字]いよ/\父《とう》さん達《たち》が東京行《とうきやうゆき》の日《ひ》もきまりましたので、お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんの家《うち》では父《とう》さん達《たち》をお客《きやく》さまにして呼《よ》んで呉《く》れました。その晩《ばん》は伯父《をぢ》さんも友伯父《ともをぢ》さんも呼《よ》ばれて行《ゆ》きましたが、『押飯《おうはん》』と言《い》つて鳥《とり》の肉《にく》のお露《つゆ》で味《あぢ》をつけた御飯《ごはん》の御馳走《ごちさう》がありましたつけ。
父《とう》さんはお雛《ひな》の家《うち》へも遊《あそ》びに行《い》つて見《み》ました。幼少《ちひさ》い時分《じぶん》から父《とう》さんを抱《だ》いたり負《おぶ》つたりして呉《く》れたあのお雛《ひな》の家《うち》へも、もう遊《あそ》びに行《ゆ》かれないかと思《おも》ひまして、お別《わか》れを告《つ》げるつもりもなく遊《あそ》びに行《ゆ》く氣《き》になつたのです。お雛《ひな》の父親《ちゝおや》の名《な》は數衛《かずゑ》と言《い》つて村《むら》でもきたないので評判《ひやうばん》な髮結《かみゆひ》ですとは、前《まへ》にもお話《はなし》して置《お》いたと思《おも》ひます。日頃《ひごろ》父《とう》さんはそのきたない髮結《かみゆひ》の子《こ》に育《そだ》てられたと言《い》つて村《むら》[#ルビの「むら」は底本では「む」]の人達《ひとたち》にからかはれて居《ゐ》ましたから、數衛《かずゑ》の家《うち》へ遊《あそ》びに行《ゆ》くところを誰《たれ》かに見《み》つけられたら、復《ま》た人《ひと》にからかはれると思《おも》ひました。そこで父《とう》さんはお墓參《はかまゐ》りに行《ゆ》く道《みち》の方《はう》から、成《な》るべく知《し》つた人《ひと》に逢《あ》はない田圃《たんぼ》の側《わき》を通《とほ》りまして、こつそりと出掛《でか》けて行《ゆ》きました。
數衛《かずゑ》の家《うち》は村《むら》の中《なか》でもずつと坂《さか》の下《した》の方《はう》にありました。父《とう》さんの小學校《せうがくかう》友達《ともだち》に扇屋《あふぎや》の金太郎《きんたらう》さんといふ子供《こども》がありましたが、その金太郎《きんたらう》さんの家《うち》よりもまだずつと下《した》の方《はう》でした。父《とう》さんが遊《あそ》びに行《ゆ》きましたら、數衛《かずゑ》は大層《たいそう》よろこびまして、爐《ろ》にかけたお鍋《なべ》で菜飯《なめし》をたいて呉《く》れました。それからお茄子《なす》の味噌汁《おみおつけ》をもこしらへまして、お別《わか》れに御馳走《ごちさう》して呉《く》れました。藁《わら》で編《あ》んだ莚《むしろ》の敷《し》いてある爐邊《ろばた》で、數衛《かずゑ》のこしらへて呉《く》れた味噌汁《おみおつけ》はお茄子《なす》の皮《かは》もむかずに入《い》れてありました。たゞそれが輪切《わぎ》りにしてありました。しかし父《とう》さんは後《あと》にも前《まへ》にも、あんなおいしい味噌汁《おみおつけ》を食《た》べたと思《おも》つたことは有《あ》りません。
五九 さやうなら
お家《うち》を出《で》る日《ひ》が來《き》ました。
その前《まへ》の日《ひ》に、曾祖母《ひいおばあ》さんは友伯父《ともをぢ》[#ルビの「ともをぢ」は底本では「ともぢ」]さんと父《とう》さんを側《そば》へ呼《よ》びましてお家《うち》の爐邊《ろばた》でいろ/\なことを言《い》つて聞《き》かせて呉《く》れました。父《とう》さんはこの年《とし》とつた曾祖母《ひいおばあ》さんがお膳《ぜん》にむかひながら、お別《わか》れの涙《なみだ》を流《なが》したことをよく覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。でも曾祖母《ひいおばあ》さんはしつかりとした氣象《きしやう》の人《ひと》で、父《とう》さん達《たち》がお家《うち》を出《で》る日《ひ》には、もう涙《なみだ》を見《み》せませんでした。
伯父《をぢ》さんに附《つ》いて東京《とうきやう》へ行《ゆ》く父《とう》さんの道連《みちづれ》には、吉《きち》さんといふ少年《せうねん》もありました。吉《きち》さんはお隣《とな》りの大黒屋《だいこくや》の子息《むすこ》さんで、鐵《てつ》さんやお勇《ゆう》さんの兄《にい》さんに當《あた》る人《ひと》でした。この人《ひと》は父《とう》さん達《たち》と違《ちが》ひまして、眼《め》の療治《れうぢ》に東京《とうきやう》まで出掛《でか》[#ルビの「でか」は底本では「でかけ」]けるといふことでした。なにしろ父《とう》さんはまだ九|歳《さい》の少年《せうねん》でしたから、草鞋《わらぢ》をはくといふ事《こと》も出來《でき》ません。そこで爺《ぢい》やが小《ちひ》さな麻裏草履《あさうらざうり》を見《み》つけて來《き》まして、踵《かゞと》の方《はう》に紐《ひも》をつけて呉《く》れました。
父《とう》さんはその新《あたら》しい草履《ざうり》をはいた足《あし》で、お家《うち》の臺所《だいどころ》の外《そと》に遊《あそ》んで居《ゐ》る鷄《にはとり》を見《み》に行《ゆ》きました。大《おほ》きな玉子《たまご》をよく父《とう》さんに御馳走《ごちさう》して呉《く》れた鷄《にはとり》は、
『コツ、コツ、コツ、コツ。』
とお名殘《なごり》を惜《を》しむやうに鳴《な》きました。
その邊《へん》にはお馴染《なじみ》の桐《きり》の木《き》も立《た》つて居《ゐ》ました。その桐《きり》の木《き》は背《せい》こそ高《たか》くても、まだ木《き》の子供《こども》でして、
『いよ/\東京《とうきやう》の方《はう》へ行《ゆ》くんですか。私《わたし》も大《おほ》きくなつてお前《まへ》さんを待《ま》つて居《ゐ》ます。御覽《ごらん》、あそこにはお前《まへ》さんに桑《くは》の實《み》を御馳走《ごちそう》した桑《くは》の木《き》も居《ゐ》ます。お前《まへ》さんのよく登《のぼ》つた柿《かき》の木《き》も居《ゐ》ます。あの土藏《どざう》の横手《よこて》の石垣《いしがき》の間《あひだ》には、土藏《どざう》の番《ばん》をする年《とし》とつた蛇《へび》が居《ゐ》て、今《いま》でも居眠《ゐねむ》りをして居《ゐ》ます。私達《わたしたち》はみんなお前《まへ》さんのお友達《ともだち》です。[#底本では「。」は脱字]私達《わたしたち》をよく覺《おぼ》えて居《ゐ》て下《くだ》さいよ。』
と言《い》ひました。
父《とう》さんはその草履《ざうり》[#ルビの「ざうり」は底本では「ざいり」]で、表庭《おもてには》の門《もん》の内《うち》にある梨《なし》[#ルビの「なし」は底本では「なり」]の木《き》の側《わき》へも行《い》きました。
『まあ、好《い》い草履《ざうり》を買《か》つて貰《もら》ひましたね。その草履《ざうり》には紐《ひも》が結《むす》んでありますね。お前《まへ》さんが大《おほ》きくなつて歸《かへ》つて來《き》たら、私《わたし》もまた大《おほ》きな梨《なし》をどつさり御馳走《ごちさう》しますよ。』
とその梨《なし》の木《き》が言《い》ひました。
伯父《をぢ》さんは父《とう》さん達《たち》を引連《ひきつ》れまして、日頃《ひごろ》親《した》しくする近所《きんじよ》の家々《うち/\》へ挨拶《あいさつ》に寄《よ》りました。大黒屋《だいこくや》へ寄《よ》れば小母《をば》[#「小母」は底本では「小毎」]さん達《たち》が家《うち》の外《そと》まで出《で》て見送《みおく》り、俵屋《たはらや》へ寄《よ》ればお婆《ばあ》さんが出《で》て見送《みおく》つて呉《く》れました。八幡屋《やはたや》、和泉屋《いづみや》、丸龜屋《まるかめや》、まだその他《ほか》にも伯父《をぢ》さんの挨拶《あいさつ》に寄《よ》つた家《うち》は澤山《たくさん》あ
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