た》を腰《こし》に差《さ》しまして、木《き》の枝《えだ》をおろすために林《はやし》の方《はう》へと出掛《でか》けました。
山《やま》の中《なか》へ來《く》る冬《ふゆ》は、斯《か》うして冬《ふゆ》ごもりの支度《したく》にかゝる爺《ぢい》やのところへも、『シヨクノ』の遊《あそ》びに夢中《むちう》になつて居《ゐ》る父《とう》さん達《たち》のところへも一|緒《しよ》にやつて來《き》ました。
黒《くろ》い枯枝《かれえだ》や黒《くろ》い木《き》の見《み》えるお家《うち》の裏《うら》の桑畠《くはばたけ》の側《わき》で、毎朝《まいあさ》爺《ぢい》やはそこいらから集《あつ》めて來《き》た落葉《おちば》を焚《た》きました。朝《あさ》の焚火《たきび》は、寒《さむ》い冬《ふゆ》の來《く》るのを樂《たの》しく思《おも》はせました。
五○ 木曾《きそ》の燒米《やきごめ》
木曾《きそ》の燒米《やきごめ》といふものは青《あを》いやわらかい稻《いね》の香氣《にほひ》がします。
『お師匠《ししやう》さまが好《す》きだから。』
と言《い》つて、お勇《ゆう》さんの家《うち》からも、つきたての燒米《やきごめ》をよく祖父《おぢい》さんのところへ貰《もら》ひました。父《とう》さんのお家《うち》の祖父《おぢい》さんは好《す》きな燒米《やきごめ》をかみながら、本《ほん》を讀《よ》んで居《ゐ》たやうな人かと思《おも》ひます。
お勇《ゆう》さんの家《うち》では毎年《まいねん》酒《さけ》を造《つく》りましたから、裏《うら》の酒藏《さかぐら》の前《まへ》の大《おほ》きな釜《かま》でお米《こめ》を蒸《む》しました。それを『うむし』と言《い》つて、重箱《ぢゆうばこ》につめては父《とう》さんのお家《うち》へも分《わ》けて呉《く》れました。あの『うむし』も、父《とう》さんの子供《こども》の時分《じぶん》に好《す》きなものでした。
五一 屋根《やね》の石《いし》と水車《すゐしや》
屋根《やね》の石《いし》は、村《むら》はづれにある水車小屋《すゐしやごや》の板屋根《いたやね》の上《うへ》の石《いし》でした。この石《いし》は自分《じぶん》の載《の》つて居《ゐ》る板屋根《いたやね》の上《うへ》から、毎日々々《まいにち/\》水車《すゐしや》の廻《まは》るのを眺《なが》めて居《ゐ》ました。
『お前《まへ》さんは毎日《まいにち》動《うご》いて居《ゐ》ますね。』
と石《いし》が言《い》ひましたら、
『さういふお前《まへ》さんは又《また》、毎日《まいにち》座《すわ》つたきりですね。』
と水車《すゐしや》が答《こた》へました。この水車《すゐしや》は物《もの》を言《い》ふにも、ぢつとして居《ゐ》ないで、廻《まは》りながら返事《へんじ》をして居《ゐ》ました。
風《かぜ》や雪《ゆき》で水車小屋《すゐしやごや》の埋《う》まつてしまひさうな日《ひ》が來《き》ました。石《いし》は毎日《まいにち》座《すわ》つて居《ゐ》るどころか、どうかすると風《かぜ》に吹《ふ》き飛《と》ばされて、板屋根《いたやね》の上《うへ》から轉《ころ》がり落《お》ちさうに成《な》りました。水車《すゐしや》は毎日《まいにち》動《うご》いて居《ゐ》るどころか、吹《ふ》きつける雪《ゆき》に埋《うづ》められまして、まるで車《くるま》の廻《まは》らなくなつてしまつたことも有《あ》りました。
この恐《おそ》ろしい目《め》に逢《あ》つた後《あと》で、屋根《やね》の石《いし》と水車《すゐしや》とが復《ま》た顏《かほ》を合《あは》せました。石《いし》はもう水車《すゐしや》に向《むか》つて、
『お前《まへ》さんは毎日《まいにち》動《うご》いて居《ゐ》ますね。』
とは言《い》はなくなりました。水車《すゐしや》も、もう屋根《やね》の石《いし》に向《むか》つて、
『お前《まへ》さんは毎日《まいにち》座《すわ》つたきりですね。』
とは言《い》はなくなりました。
五二 炬燵《こたつ》
いろ/\な話《はなし》の出《で》る山家《やまが》のあたゝかい炬燵《こたつ》。
鳥《とり》がとまりに行《ゆ》くところは木《き》です。子供《こども》が冷《つめた》いからだを温《あたゝ》めに行《ゆ》くところは、家《うち》のものゝ顏《かほ》の見《み》られる炬燵《こたつ》です。
五三 唄《うた》の好《す》きな石臼《いしうす》
石臼《いしうす》ぐらゐ唄《うた》の好《す》きなものは有《あ》りません。石臼《いしうす》ぐらゐ、又《また》、居眠《ゐねむ》りの好《す》きなものも有《あ》りません。
冬《ふゆ》の夜長《よなが》に、粉挽《こなひ》き唄《うた》の一つも歌《うた》つてやつて御覽《ごらん》なさい。唄《うた》の好《す》きな石臼《いしうす》は夢中《むちう》になつて、いくら挽《ひ》いても草臥《くたぶ》れるといふことを知《し》りません。ごろ/\ごろ/\石臼《いしうす》が言《い》ふのは、あれは好《い》い心持《こゝろもち》だからです。もつと、もつと、と唄《うた》を催促《さいそく》して居《ゐ》るのです。
そのかはり、すこし手《て》でもゆるめてやつて御覽《ごらん》なさい。居眠《ゐねむ》りの好《す》きな石臼《いしうす》は何時《いつ》の間《ま》にか動《うご》かなくなつて居《ゐ》ます。そして何時《いつ》までゞも居眠《ゐねむ》りをして居《ゐ》ます。
父《とう》さんのお家《うち》の石臼《いしうす》は青豆《あをまめ》を挽《ひ》くのが自慢《じまん》でした。それを黄粉《きなこ》にして、家中《うちぢう》のものに御馳走《ごちさう》するのが自慢《じまん》でした。山家育《やまがそだ》ちの石臼《いしうす》は爐邊《ろばた》で夜業《よなべ》をするのが好《す》きで、皸《ひゞ》や『あかぎれ』の切《き》れた手《て》も厭《いと》はずに働《はたら》くものゝ好《よ》いお友達《ともだち》でした。
五四 冬《ふゆ》の贈《おく》り物《もの》
峠《たうげ》の上《うへ》から村《むら》の小學校《せうがくかう》へ通《かよ》ふ生徒《せいと》がありました。近《ちか》いところから通《かよ》ふ他《ほか》の生徒《せいと》と違《ちが》ひまして、子供《こども》の足《あし》で毎日《まいにち》峠《たうげ》の上《うへ》から通《かよ》ふのはなか/\骨《ほね》が折《お》れました。でも、この生徒《せいと》は家《うち》から學校《がくかう》まで歩《ある》いて行《ゆ》く路《みち》が好《す》きで、降《ふ》つても照《て》つても通《かよ》ひました。
寒《さむ》い、寒《さむ》い日《ひ》に、この生徒《せいと》が遠路《とほみち》を通《かよ》つて行《ゆ》きますと、途中《とちう》で知《し》らないお婆《ばあ》さんに逢《あ》ひました。
『生徒《せいと》さん、今日《こんち》は。』
とそのお婆《ばあ》さんが聲《こゑ》を掛《か》けました。お婆《ばあ》さんは通《とほ》り過《す》ぎて行《い》つてしまはないで、
『生徒《せいと》さん、今日《けふ》も學校《がくかう》ですか。この寒《さむ》いのに、よくお通《かよ》ひですね。毎日々々《まいにち/\》さうして精出《せいだ》して下《くだ》さると、このお婆《ばあ》さんも御褒美《ごほうび》をあげますよ。』
と言《い》ひました。
知《し》らないお婆《ばあ》さんは見《み》かけによらない優《やさ》しい人でして、學校通《がくかうかよ》ひをする生徒《せいと》がかじかんだ手《て》をして居《ゐ》ましたら、それをお婆《ばあ》さんは自分《じぶん》の手《て》で温《あたゝ》めて呉《く》れました。
『まあ、斯樣《こん》なかじかんだ手《て》をして、よく寒《さむ》くありませんね。そのかはり、お前《まへ》さんが遠路《とほみち》を通《かよ》ふものですから、丈夫《ぢやうぶ》さうに成《な》りましたよ。御覽《ごらん》、お前《まへ》さんの頬《ほゝ》ぺたの色《いろ》の好《よ》くなつて來《き》たこと。』
とさう言《い》ひました。
生徒《せいと》は知《し》らない人《ひと》から斯樣《こん》なことを言《い》はれたものですから、そのお婆《ばあ》さんをよく見《み》ましたら、右《みぎ》の手《て》には山《やま》からでも伐《き》つて來《き》たやうな細《ほそ》い木《き》の杖《つえ》をついて、左《ひだり》の手《て》には籠《かご》を提《さ》げて居《ゐ》ました。籠《かご》の中《なか》には、青々《あを/\》とした蕗《ふき》の蕾《つぼみ》が一ぱい入《はひ》つて居《ゐ》ました。そのお婆《ばあ》さんは、まるでお伽話《とぎばなし》の中《なか》にでも出《で》て來《き》さうなお婆《ばあ》さんでした。
『お前《まへ》さんは誰《だれ》ですか。』
と生徒《せいと》が尋《たづ》ねましたら、お婆《ばあ》さんはニツコリしながら、提《さ》げて居《ゐ》る籠《かご》の中《なか》の蕗《ふき》の蕾《つぼみ》を見《み》せまして
『私《わたし》は「冬《ふゆ》」といふものですよ。』
と生徒《せいと》に言《い》つて聞《き》かせました。夫《それ》から、こんな事《こと》も言《い》ひました。
『お家《うち》へ歸《かへ》つたら、父《とう》さんや母《かあ》さんに見《み》てお貰《もら》ひなさい。お前《まへ》さんの頬《ほつ》ぺたの紅《あか》い色《いろ》もこのお婆《ばあ》さんのこゝろざしですよ。』
五五 少年《せうねん》の遊学《いうがく》
父《とう》さんは九つの歳《とし》まで、祖父《おぢい》さんや祖母《おばあ》さんの膝下《ひざもと》に居《ゐ》ましたがその歳《とし》の秋《あき》に祖父《おぢい》さんのいゝつけで、東京《とうきやう》へ學問《がくもん》の修業《しうげふ》に出《で》ることに成《な》りました。父《とう》さんは友伯父《ともをぢ》さんと一|緒《しよ》にお家《うち》の伯父《をぢ》さんに連《つれ》られて行《ゆ》くことに成《な》りました。
『二人《ふたり》とも東京《とうきやう》へ修業《しうげふ》に行《ゆ》くんだよ。』
と伯父《をぢ》さんに言《い》はれて、父《とう》さんは子供心《こどもごゝろ》にも東京《とうきやう》のやうなところへ行《ゆ》かれることを樂《たのし》みに思《おも》ひました。父《とう》さんより三つ年長《としうへ》の友伯父《ともをぢ》さんが、その時《とき》やうやく十二|歳《さい》でした。
今《いま》から思《おも》へば祖母《おばあ》さんもよくそんな幼少《ちひさ》な兄弟《きやうだい》の子供《こども》を東京《とうきやう》へ出《だ》す氣《き》になつたものですね。その時《とき》の父《とう》さんは今《いま》の末子《すゑこ》より年《とし》が二つも下《した》でしたからね。
この東京行《とうきやうゆき》は、父《とう》さんが生《うま》れて初《はじ》めての旅《たび》でした。父《とう》さんが荷物《にもつ》の用意《ようい》といへば、小《ちひ》さな翫具《おもちや》の鞄《かばん》でした。それは美濃《みの》の中津川《なかつがは》といふ町《まち》の方《はう》から翫具《おもちや》の商人《あきんど》が來《き》た時《とき》に、祖母《おばあ》さんが買《か》つて呉《く》れたものでした。
『お前《まへ》が東京《とうきやう》へ行《ゆ》く時《とき》には、この鞄《かばん》へ金米糖《こんぺいたう》を一ぱいつめてあげますよ。』
と祖母《おばあ》さんは言《い》ひました。父《とう》さんもその小《ちひ》さな鞄《かばん》に金米糖《こんぺいたう》を入《い》れてもらつて、それを持《も》つて東京《とうきやう》に出《で》ることを樂《たのし》みにしたやうなそんな幼少《ちひさ》な時分《じぶん》でした。
五六 祖父《おぢい》さんと祖母《おばあ》さんのおせんべつ
祖母《おばあ》さんは、おせんべつのしるしにと言《い》つて、東京《とうきやう》へ出《で》る父《とう》さんのために羽織《はおり》や帶《おび》を織《お》つて呉《く》れました。
『トン/\ハタリ、トンハタリ。』
と祖母《おばあ》さんは例《れい》の玄關《げんくわん》の側《わき》にある機《はた》に腰掛《こしか》けまして、羽織《はおり》にする黄《き》八|丈《ぢやう》の反物《たんもの》と、子
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