でした。街道《かいだう》を通《とほ》る旅人《たびびと》は誰《たれ》でもその休茶屋《やすみぢやや》で休《やす》んで行《ゆ》くと見《み》えて、お猿《さる》さんもよく人《ひと》に慣《な》れて居《ゐ》ました。
父《とう》さんが東京《とうきやう》へ行《ゆ》く話《はなし》をしましたら、お猿《さる》さんも羨《うらや》ましさうに、
『わたしも一《ひと》つ金米糖《こんぺいたう》でも頂《いたゞ》いて、皆《みな》さんのお供《とも》をしたいものです。御覽《ごらん》の通《とほ》り、わたしはこの棧橋《かけはし》の番人《ばんにん》でして、皆《みな》さんのお供《とも》をしたいにも、こゝを置《お》いては行《ゆ》かれません。まあ、この山《やま》の中《なか》の土産話《みやげばなし》に、そこにある古《ふる》い石《いし》でもよく見《み》て行《い》つて下《くだ》さい。これから東京《とうきやう》へお出《いで》になりましたら、その石《いし》に發句《ほつく》が一つ彫《ほ》つてあつたとお話《はな》し下《くだ》さい。その發句《ほつく》をつくつたのは昔《むかし》[#ルビの「むかし」は底本では「むか」]の芭蕉翁《ばせををう》といふ人だとお話《はな》し下《くだ》さい。』
と言《い》ひました。
伯父《をぢ》さんも、吉《きち》さんも、友伯父《ともをぢ》さんも、みんなお猿《さる》さんの側《わき》へ來《き》まして、崖《がけ》の下《した》にある古《ふる》い石碑《せきひ》の文字《もじ》を讀《よ》みました。それには、
『かけはしやいのちをからむ蔦《つた》かづら』
としてありました

   六七 山越《やまご》し

やがて、父《とう》さんは伯父《をぢ》さんに連《つ》れられて、『みさやま峠《たうげ》』といふ山《やま》を越《こ》しにかゝりました。
父《とう》さんも馬籠《まごめ》のやうな村《むら》に育《そだ》つた子供《こども》です。山道《やまみち》を歩《ある》くのに慣《な》れては居《ゐ》ます。それにしても、『みさやま峠《たうげ》』は見上《みあ》げるやうな險《けは》しい山坂《やまさか》でした。大人《おとな》の足《あし》でもなか/\骨《ほね》が折《を》れるといふくらゐのところでした。何故《なぜ》、伯父《をぢ》さんがそんな山越《やまご》しにかゝつたかといふに、早《はや》く皆《みんな》を連れて馬車《ばしや》のあるところまで出《で》たいと考《かんが》へたからです。木曾《きそ》は山《やま》に圍《かこ》まれた深《ふか》い谷間《たにあひ》のやうなところですから、どうしても峠《たうげ》一《ひと》つだけは越《こ》さなければ成《な》らなかつたのです。何《なん》と言《い》つても父《とう》さんはまだ幼少《ちひさ》かつたものですから、友伯父《ともをぢ》さんや吉《きち》さんのやうには歩《ある》けませんでした。
『さあ、金米糖《こんぺいたう》を出《だ》すから、もつと早《はや》くお歩《ある》き。』
と伯父《をぢ》さんに言《い》はれましても、父《とう》さんの足《あし》はなか/\前《まへ》[#「ルビの「まへ」は底本では「まい」]へ進《すゝ》まなくなりました。
伯父《をぢ》さんの金米糖《こんぺいたう》に勵《はげ》まされて、復《ま》た父《とう》さんも石《いし》ころの多《おほ》い山坂《やまさか》を登《のぼ》つて行《い》きましたが、そのうちに日《ひ》が暮《く》れかゝりさうに成《な》つて來《き》ました。伯父《をぢ》さんはもう困《こま》つてしまつて、父《とう》さんの締《し》めて居《ゐ》る帶《おび》に手拭《てぬぐひ》を結《ゆは》ひつけ、その手拭《てぬぐひ》で父《とう》さんを引《ひ》いて行《い》くやうにして呉《く》れました。

   六八 沓掛《くつかけ》の温泉宿《をんせんやど》

今《いま》だに父《とう》さんはあの『みさやま峠《たうげ》』の山越《やまご》しを忘《わす》れません。草臥《くたぶ》れた足《あし》をひきずつて行《い》きまして、日暮方《ひくれがた》の山《やま》の裾《すそ》の方《はう》にチラ/\チラ/\燈火《あかり》のつくのを望《のぞ》んだ時《とき》の嬉《うれ》しかつた心持《こゝろもち》をも忘《わす》れません。
その燈火《あかり》のついて居《ゐ》るところが、沓掛《くつかけ》の温泉宿《をんせんやど》でした。

   六九 乘合馬車《のりあひばしや》

沓掛《くつかけ》まで行《い》きましたら、やうやくその邊《へん》から中仙道《なかせんだう》を通《かよ》ふ乘合馬車《のりあひばしや》がありました。
それから父《とう》さんは伯父《をぢ》さんや吉《きち》さんや友伯父《ともをぢ》さんと一緒《いつしよ》に東京行《とうきやうゆき》の馬車《ばしや》に乘《の》りまして、長《なが》い長《なが》い中仙道《なかせんだう》の街道《かいだう》を晝《ひる》も夜《よる》も乘《の》りつゞけに乘《の》つて行《い》きました。やがて馬車《ばしや》がある町《まち》を通《とほ》りました時《とき》に、父《とう》さんは初《はじ》めて消防夫《ひけし》の梯子登《はしごのぼ》りといふものを見《み》ました。高《たか》い梯子《はしご》に乘《の》つた人《ひと》が町《まち》の空《そら》で手足《てあし》を動《うご》かして居《ゐ》ました。父《とう》さんは馬車《ばしや》の上《うへ》からそれを眺《なが》めて、子供心《こどもごゝろ》にめづらしく思《おも》つて行《い》きました。伯父《をぢ》さんの話《はなし》で、そこが上州《じやうしう》の松井田《まつゐだ》といふ町《まち》だといふことも知《し》りました。またそれから飽《あ》きるほど乘《の》つて行《ゆ》くうちに、馬車《ばしや》はある川《かは》の岸《きし》へ出《で》ました。川《かは》にかけた橋《はし》の落《お》ちた時《とき》とかで、伯父《をぢ》さんでも誰《たれ》でも皆《みな》その馬車《ばしや》から降《お》りて、水《みづ》の淺《あさ》い所《ところ》を渉《わた》りました。
父《とう》さんは馬丁《べつたう》の背中《せなか》に負《おぶ》さつて、川《かは》を越《こ》しました。その川《かは》は烏川《からすがは》といふ川《かは》だと聞《き》きました。
まあ、父さんも、どんなに幼少《ちひさ》い子供《こども》だつたでせう。東京行《とうきやうゆき》の馬車《ばしや》の中《なか》には、一緒《いつしよ》に乘合《のりあは》せた他所《よそ》の小母《をば》さんもありました。その知《し》らない小母《をば》さんが旅《たび》の袋《ふくろ》からお菓子《くわし》なぞを出《だ》しまして、それを父《とう》さんにおあがりと言《い》つて呉《く》れたこともありました。いくら乘《の》つても乘《の》つても、なか/\東京《とうきやう》へは着《つ》かないものですから、しまひには父《とう》さんも馬車《ばしや》に退屈《たいくつ》しまして、他所《よそ》の小母《をば》さんに抱《だ》かれながらその膝《ひざ》の上《うへ》に眠《ねむ》つてしまつたことも有《あ》りました。

   七〇 終《をはり》の話《はなし》

こんな風《ふう》にして父《とう》さんは自分《じぶん》の生《うま》れたふるさとを幼少《ちひさ》な時分《じぶん》に出《で》て來《き》たものです。それから長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》を置《お》いては、木曾《きそ》へ歸《かへ》つて見《み》ますと、その度《たび》にあの山《やま》の中《なか》も變《かは》つて居《ゐ》ました。しかし父《とう》さんの子供《こども》の時分《じぶん》に飮《の》んだふるさとのお乳《ちゝ》の味《あぢ》は父《とう》さんの中《なか》に變《かは》らずにありますよ。
太郎《たらう》よ、次郎《じらう》よ、お前達《まへたち》も大《おほ》きくなつたら父《とう》さんの田舍《ゐなか》を訪《たづ》ねて見《み》て下《くだ》さい。
[#改ページ]

      ふるさとの後《のち》に

この本《ほん》は前《まへ》に出《だ》した『幼《をさな》きものに』と姉妹《しまい》のやうにして出《だ》します。あの佛蘭西《ふらんす》土産《みやげ》には、父《とう》さんのお話《はなし》ばかりでなく、佛蘭西《ふらんす》の方《ほう》で聞《き》いて來《き》たいろ/\なお話《はなし》も入《い》れて置《お》きましたが、この『ふるさと』には父《とう》さんのお話《はなし》ばかりを集《あつ》めました。この本《ほん》が出來《でき》ましたら、木曾《きそ》の伯父《をぢ》さんの家《うち》に勉強《べんきやう》して居《ゐ》る三|郎《らう》のところへも一|册《さつ》[#ルビの「さつ」は底本では「さい」]送《おく》りたいと思《おも》ひます[#「ます」は底本では「すま」]。
父《とう》さんはこの少年《せうねん》の讀本《とくほん》を書《か》かうと思《おも》ひ立《た》つた頃《ころ》に、別《べつ》につくつて置《お》いたお話《はなし》が一つあります。それは『兄弟《きやうだい》』のお話《はなし》です。それをこの本《ほん》の後《のち》に添《そ》へようと思《おも》ひます。
こゝにそのお話《はなし》があります。
早《はや》く眼《め》がさめても何時《いつ》までも寢《ね》て居《ゐ》るのがいゝか、遲《おそ》く眼《め》がさめてもむつくり起《お》きるのがいゝか、そのことで兄弟《きやうだい》が爭《あらそ》つて居《ゐ》ました。
そこへこの兄弟《きやうだい》の祖父《おぢい》さんが來《き》まして、
『まあ、お前達《まへたち》は何《なに》をそんなに爭《あらそ》つて居《ゐ》るのです。』
と尋《たづ》ねました。
兄《あに》が言《い》ふには、
『祖父《おぢい》さん、私《わたし》は早《はや》く眼《め》がさめました。そのかはり何時《いつ》までも寢《ね》て居《ゐ》ました。弟《おとうと》は遲《おそ》く眼《め》がさめました。そのかはり私《わたし》より先《さき》に起《お》きました。私達《わたしたち》は今《いま》そのことで言《い》ひ合《あ》つて居《ゐ》るところです。』
『私《わたし》は遲《おそ》く眼《め》がさめても、兄《にい》さんのやうに長《なが》く寢《ね》て居《ゐ》ないで、むつくり起《お》きた方《はう》がいゝと思《おも》ひます。』
と弟《おとうと》が言《い》ひました。すると、兄《あに》が言《い》ふには、
『弟《おとうと》があんなことを言《い》つて威張《ゐば》つて居《ゐ》ます。そのくせ、私《わたし》が早《はや》く眼《め》のさめた時分《じぶん》には、弟《おとうと》はまだなんにも知《し》らないでグウ/″\グウ/″\と眠《ねむ》つて居《ゐ》ました。私《わたし》は鷄《にはとり》の鳴《な》いたのを知《し》つて居《ゐ》ます。夜《よ》の明《あ》けたのも知《し》つて居《ゐ》ます。』
『そんなことを言《い》つて兄《にい》さんが威張《ゐば》つても、何時《いつ》までも兄《にい》さんのやうに寢《ね》て居《ゐ》たら、眼《め》がさめないのも同《おな》じことです。』
とまた弟《おとうと》が言《い》ひました。
祖父《おぢい》さんはこの兄弟《きやうだい》の爭《あらそ》ひを聞《き》いて笑《わら》ひ出《だ》しました。さうして斯《か》う言ひました。
『馬鹿《ばか》な兄弟《きやうだい》だ。お前達《まへたち》がそんなことを言《い》つて爭《あらそ》つて居《ゐ》るうちに、太陽《おてんとう》さまはもう出《で》てしまつたぢやないか。』
[#地から8字上げ](終)



底本:「名著複刻 日本児童文学館 11」ほるぷ出版
   1973(昭和48)年3月初版発行
底本の親本:「ふるさと」實業之日本社
   1920(大正9)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の確認にあたっては、「島崎藤村全集 第十六卷」新潮社、1951(昭和26)年3月15日発行を参照しました。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年1月21日作成
2004年2月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作に
前へ 次へ
全18ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング