《たび》に眠《ねむ》い眼《め》をこすり/\蝋燭《らふそく》を持《も》たせられるのはお勇《ゆう》さんや父《とう》さんの役目《やくめ》でした。
末子《すゑこ》よ。お前《まへ》は『おばこ』といふ草《くさ》の葉《は》を採《と》つて遊《あそ》んだことが有《あ》りますか。あの草《くさ》の葉《は》は糸《いと》にぬいて、みんなよく織《お》る真似《まね》をして遊《あそ》びませう。お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんもあの『おばこ』を採《と》つて來《き》て織《お》ることを樂《たのし》みにするやうな幼《をさな》い年頃《としごろ》でした。

   四二 屋號《やがう》

どこの田舍《ゐなか》にもあるやうに、父《とう》さんの村《むら》でも家毎《いへごと》に屋號《やがう》がありました。大黒屋《だいこくや》、俵屋《たはらや》、八幡屋《やはたや》、和泉屋《いづみや》、笹屋《さゝや》、それから扇屋《あふぎや》といふやうに。
笹屋《さゝや》とは笹《さゝ》のやうに繁《しげ》る家《いへ》、扇屋《あふぎや》とは扇《あふぎ》のやうに末《すゑ》の廣《ひろ》がる家《いへ》といふ意味《いみ》からでせう。でも笹屋《さゝや》と言《い》つてもそれを『笹《さゝ》の家《や》』と思《おも》ふものもなく、扇屋《あふぎや》と言《い》つても『扇《あふぎ》の家《や》』と思《おも》ふものはありません。屋號《やがう》といふものは、その家々《いへ/\》の符牒《ふてふ》のやうに思《おも》はれて居《ゐ》るものでした。

   四三 お墓參《はかまゐ》りの道《みち》

村《むら》の人達《ひとたち》――殊《こと》に女《をんな》の人達《ひとたち》の通《とほ》る裏道《うらみち》は並《なら》んだ人家《じんか》に添《そ》ふて村《むら》の裏側《うらがは》に細《ほそ》くついて居《ゐ》ました。父《とう》さんのお家《うち》の裏木戸《うらきど》から、竹籔《たけやぶ》について廻《まは》りますと、その細《ほそ》い裏道《うらみち》へ出《で》ました。祖母《おばあ》さんに連《つ》れられて、父《とう》さんはよくその道《みち》をお墓《はか》の方《はう》へ通《かよ》ひました。
お墓《はか》へ行《い》く道《みち》は、村《むら》のものだけが通《とほ》る道《みち》です。旅人《たびびと》の知《し》らない道《みち》です。田畠《たはたけ》に出《で》て働《はたら》く人達《ひとたち》の見《み》える樂《たの》しい靜《しづ》かな道《みち》です。
父《とう》さんのお家《うち》のお墓《はか》は永昌寺《えいしやうじ》まで登《のぼ》る坂《さか》の途中《とちう》を左《ひだり》の方《はう》へ曲《まが》つて行《い》つたところにありました。これが誰《だれ》だ、あれが誰《だれ》だ、と言《い》つて祖母《おばあ》さんの教《おし》へて呉《く》れるお墓《はか》の中《なか》には、戒名《かいみやう》の文字《もじ》を赤《あか》くしたのが有《あ》りました。その赤《あか》い戒名《かいみやう》はまだこの世《よ》に生《い》きて居《ゐ》る人《ひと》で、旦那《だんな》さんだけ亡《な》くなつた曾祖母《ひいおばあ》さんのやうな人《ひと》のお墓《はか》でした。祖母《おばあ》さんは古《ふる》い苔《こけ》の生《は》えたお墓《はか》のいくつも並《なら》んだ石壇《いしだん》の上《うへ》を綺麗《きれい》に掃《は》いたり、水《みづ》をまいたりして、
『御先祖《ごせんぞ》さま、今日《こんにち》は。』
と言《い》ふやうにお花《はな》を上《あ》げました。祖母《おばあ》さんがお墓《はか》の竹箒《たけぼほぎ》を立《た》てかけて置《お》くところは大《おほ》きな杉《すぎ》の木《き》の根《ね》キでしたが、その杉《すぎ》の木《き》の間《あひだ》から馬籠《まごめ》の村《むら》が見《み》えました。
お墓《はか》にある御先祖《ごせんぞ》さまは永昌院殿《えいしやうゐんどん》と言《い》ひました。永昌寺《えいしやうじ》のお寺《てら》と同《おな》じ名《な》でした。あの御先祖《ごせんぞ》さまが馬籠《まごめ》の村《むら》も開《ひら》けば、お寺《てら》も建《た》てたといふことです。あれは父《とう》さんのお家《うち》の御先祖《ごせんぞ》さまといふばかりでなく、村《むら》の御先祖《ごせんぞ》さまでもあるといふことです。
なんと、あの御先祖《ごせんぞ》さまのやうに、開《ひら》かうと思《おも》へばこんな村《むら》も開《ひら》けて行《ゆ》きますし、建《た》てようと思《おも》へば永昌寺《えいしやうじ》のやうなお寺《てら》が建《た》つて、それが父《とう》さんの代《だい》まで續《つゞ》いて來《き》て居《ゐ》ます。先《ま》づ、思《おも》へ。何《なに》もかもそこから始《はじ》まります。御先祖《ごせんぞ》さまがさう思《おも》つてこんな山《やま》の中《なか》へ村《むら》を開《ひら》きはじめたといふことには、大《おほ》きな力《ちから》がありますね。

   四四 蜂《はち》の子《こ》

地蜂《ぢばち》といふ蜂《はち》は、よく/\土《つち》のにほひが好《す》きと見《み》えまして、地《ぢ》べたの中《なか》へ巣《す》をかけます。土手《どて》の側《わき》のやうなところへ巣《す》の入口《いりぐち》の穴《あな》をつくつて置《お》きます。
蜜蜂《みつばち》、赤蜂《あかばち》、土蜂《つちばち》、熊《くま》ン蜂《ばち》、地蜂《ぢばち》――木曾《きそ》のやうな山《やま》の中《なか》にはいろ/\な蜂《はち》が巣《す》をかけますが、その中《なか》でも大《おほ》きな巣《す》をつくるのは熊《くま》ン蜂《ばち》と地蜂《ぢばち》です。熊《くま》ン蜂《ばち》は古《ふる》い土塀《どへい》の屋根《やね》の下《した》のやうなところに大《おほ》きな巣《す》をかけますが、地蜂《ぢばち》の巣《す》もそれに劣《おと》らないほどの堅固《けんご》なもので、三|階《がい》にも四|階《かい》にもなつて居《ゐ》て、それが漆《うるし》の柱《はしら》で支《さゝ》へてあります。こんなに地蜂《ぢばち》の巣《す》[#「巣《す》」は底本では「親《おや》」]は大《おほ》きいのですが、地蜂《ぢばち》の親《おや》といふものは小《ちひ》さな蜂《はち》で、熊《くま》ン蜂《ばち》の半分《はんぶん》もありません。あの小《ちひ》さな建築技師《けんちくぎし》が三|階《がい》も四|階《かい》もある巣《す》を建《た》てゝ、一|階《かい》毎《ごと》に澤山《たくさん》な部屋《へや》を造《つく》るのですから、そこには餘程《よほど》の協《あは》せた力《ちから》といふものが入《はい》つて居《ゐ》るのでせう。
父《とう》さんの田舍《ゐなか》の方《はう》ではあの蜂《はち》の子《こ》を佃煮《つくだに》のやうにして大層《たいそう》賞美《しやうび》すると聞《き》いたら、お前達《まへたち》は驚《おどろ》くでせうか。一口《ひとくち》に蜂《はち》の子《こ》と言《い》ひましても、木曾《きそ》で賞美《しやうび》するのは地蜂《ぢばち》の巣《す》から取《と》つた子《こ》だけです。蜂《はち》の親《おや》は食《た》べませんが、どうかするとあの巣《す》の中《なか》からは親《おや》に成《な》りかけたのが出《で》て來《き》ます。それを食《た》べます。お前達《まへたち》はそこいらに居《ゐ》る蜂《はち》が庭《には》なぞへ飛《と》んで來《き》て花《はな》の蕋《しべ》を出《で》たり入《はい》つたりするのを見《み》かけるでせう。それからあの黄色《きいろ》い蓋《ふた》のしてある蜂《はち》の巣《す》の見事《みごと》に出來《でき》たのを見《み》かけることも有《あ》るでせう。蜂《はち》は汚《きたな》いものでは有《あ》りません。もしお前達《まへたち》が木曾《きそ》でいふ『蜂《はち》の子《こ》』を食《た》べ慣《な》れて、あたゝかい御飯《ごはん》の上《うへ》にのせて食《た》べる時《とき》の味《あぢ》を覺《おぼ》えたら、
『父《とう》さん、こんなにおいしものですか。』
と言《い》ふやうに成《な》るでせう。
ある日《ひ》、友伯父《ともをじ》さんは裏《うら》の木小屋《きごや》の近《ちか》くにある古《ふる》い池《いけ》で蛙《かへる》をつかまへました。土地《とち》のものが地蜂《ぢばち》の巣《す》を見《み》つけるには、先《ま》づ蛙《かへる》の肉《にく》を餌《え》にします。それを友伯父《ともをぢ》さんはよく知《し》つて居《ゐ》ましたから、細《ほそ》い竿《さを》の先《さき》に蛙《かへる》の肉《にく》を差《さ》し、飛《と》んで來《く》る蜂《はち》の眼《め》につきさうな塲處《ばしよ》に立てゝ、別《べつ》に餌《え》にする小《ちひ》さな肉《にく》には紙《かみ》の片《きれ》をしばりつけて出《だ》して置《お》きました。丁度《ちやうど》釣《つり》をするものが魚《さかな》を待《ま》つて居《ゐ》るやうに、友伯父《ともをぢ》さんは蜂《はち》の來《く》るのを待《ま》つて居《ゐ》ました。蛙《かへる》の肉《にく》を食《た》べに來《き》た蜂《はち》は餌《え》をくはへて巣《す》の方《はう》へ飛《と》んで行《い》きますが、その小《ちひ》さな蛙《かへる》の肉《にく》についた紙《かみ》の片《きれ》で巣《す》の行衛《ゆくゑ》を見定《みさだ》めるのです。斯《か》うして友伯父《ともをぢ》さんは近所《きんじよ》の子供達《こどもたち》と一|緒《しよ》に、ある地蜂《ぢばち》の巣《す》を見《み》つけたことが有《あ》りました。地蜂《ぢばち》の巣《す》を取《と》りに行《ゆ》くものは、巣《す》の出入口《でいりぐち》へ火藥《くわやく》を打《う》ち込《こ》んで、澤山《たくさん》な親蜂《おやばち》が眼《め》を廻《まは》して居《ゐ》る間《ま》に獲物《えもの》を手《て》に入《い》れるのだと聞《き》きました。そして巣《す》を持《も》つて逃《に》げ歸《かへ》るのだと聞《き》きました。どうかすると蘇生《いきかへ》つた蜂《はち》に追《お》はれて刺《さ》されたといふ人《ひと》の話《はなし》も聞《き》きました。さうなると鐵砲《てつぱう》をかついで獸《けもの》を打《う》ちに行《ゆ》くも同《おな》じやうなものです。

   四五 青《あを》い柿《かき》

『もうお前《まへ》さんはそんなに赤《あか》くなつたのですか。』
とまだ青《あを》くて居《ゐ》る柿《かき》が、お隣《とな》りの柿《かき》に言《い》ひました。この青《あを》い柿《かき》と、赤《あか》い柿《かき》とは、お百姓《ひやくしやう》の家《うち》の庭《には》にある二|本《ほん》の柿《かき》の木《き》の枝《えだ》に生《な》つて居《ゐ》ました。
赤《あか》い柿《かき》は青《あを》い柿《かき》を慰《なぐさ》めようと思《おも》ひまして、
『さう、力《ちから》を落《おと》すものでは有《あ》りません。お前《まへ》さんだつても今《いま》に、私《わたし》のやうに好《い》い色《いろ》がつきますよ。』
と言《い》ひましたら、青《あを》い柿《かき》は首《くび》を振《ふ》りまして、
『いえ、あのお猿《さる》さんが蟹《かに》にぶつけたのも、きつと私《わたし》のやうな澁《しぶ》い柿《かき》で、自分《じぶん》で取《と》つて食《た》べたといふのはお前《まへ》さんのやうな甘《あま》い柿《かき》ですよ。』
と力《ちから》を落《おと》したやうに言《い》ひました。
お百姓《ひやくしやう》は庭《には》へ見廻《みまは》りに來《き》まして、赤《あか》い柿《かき》を大《おほ》きな笊《ざる》に入《い》れて持《も》つて行《い》つてしまひました。その木《き》の枝《えだ》の高《たか》い上《うへ》の方《はう》には、たつた一つだけ柿《かき》の赤《あか》いのが殘《のこ》つて居《ゐ》ました。殘《のこ》つた赤《あか》い柿《かき》が高《たか》いところからお隣《とな》りの柿《かき》を見《み》ますと、まだ一つも色《いろ》のついたのが有《あ》りませんでしたから、
『どうしてお前《まへ》さんは、そんなに愚圖々々《ぐづ/\》して居《ゐ》るんですか。』
と尋《たづ》ねました。さう言《い》はれると、青《あを》い柿《かき》はまた力《ちから》を落《おと》した
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