《い》かうとはしませんでした。そこいらにはもう誰《だれ》も人《ひと》の居《ゐ》ない頃《ころ》で、木戸《きど》に近《ちか》いお稻荷《いなり》さまの小《ちひ》さな社《やしろ》から、お家《うち》の裏手《うらて》にある深《ふか》い竹籔《たけやぶ》の方《はう》へかけて、何《なに》もかも、ひつそりとして居《ゐ》ました。大《おほ》きな蝶々《てふ/\》だけが氣味《きみ》の惡《わる》い黒《くろ》い羽《はね》をひろげて、枳殼《からたち》のまはりを飛《と》んで居《ゐ》ました。それを見《み》ると、父《とう》さんはその蝶々《てふ/\》を殺《ころ》してしまはないうちは安心《あんしん》の出來《でき》ないやうな氣《き》がして、手《て》にした竹竿《たけざを》で、滅茶々々《めちや/\》に枳殼《からたち》の枝《えだ》の方《はう》を打《う》つて置《お》いて、それから木戸《きど》の内《うち》へ逃《に》げ込《こ》みました。
未《いま》だに父《とう》さんはあの時《とき》のことを忘《わす》れません。母屋《もや》の石垣《いしがき》の下《した》にある古《ふる》い池《いけ》の横手《よこて》から、ひつそりとした木小屋《きごや》の前《まへ》を
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