向ったと同じ手付で自分の眉《まゆ》のあたりを幾度となく撫《な》で柔げて見た。
「ひどいものじゃないかや。何だか自分の顔のような気もしないよ」
とまたおげんは言って、鏡を娘の方へ押しやった後でも嘆息した。
「ふーんのようなことだ」
とお新もそこへ笑いころげた。
静かな日がそれから続くようになった。蜂谷の医院に来て泊まっている他の患者達のことに就《つ》いても、一番早くいろいろな報告をもって来て、おげんの部屋を賑かすのは小さな甥だった。三吉が小山の家の方から通っている同じ学校の先生で、夏休みを機会に鼻の療治を受けに来ている人があると、三吉は直ぐそれを知らせにおげんのところへ飛んで来るし、あわれげな唖《おし》の小娘を連れて遠い山家の方から医院に着いた夫婦があると、それも知らせに飛んで来た。おげんはこの小さな甥やお新に誘われて木曽川の岸の岩石の間に時を送りに行って来ることもあった。夏らしい日あたりや、影や、時の物の茄子《なす》でも漬けて在院中の慰みとするに好いような沢山な円い小石がその川岸にあった。あの小山の家の方で、墓参りより外にめったに屋外《そと》に出たことのないようなおげんに取っては、その川岸は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る場所であり、透きとおるような冷い水に素足を浸して見ることも出来る場所であった。おげんがその川岸から拾い集めた小石で茄子なぞを漬けることを楽みに思ったのは、お新や三吉や婆やを悦ばせたいばかりでなく、その好い色に漬かったやつを同じ医院の患者仲間に、鼻の悪い学校の先生にも、唖《おし》の娘を抱いた夫婦者にも振舞いたいからであった。彼女はパンを焼くことなぞも上手で、そういうことは好きでよくした。在院中の慰みの一つは、その家から提げて来た道具で、小さな甥のために三時がわりのパンを焼くことであった。三吉はまた大悦びで、おばあさんが手製のふかしたてのパンを患者仲間の居る部屋々々へ配りに行くこともあった。
おげんが過ぎ去った年月のことをしみじみ胸に浮べることの出来たのも、この静かな医院に移ってからであった。部屋に居て聞くと、よく蛙《かわず》が鳴いた。昼間でも鳴いた。その声は男ざかりの時分の旦那の方へも、遠い旅から年をとって帰って来た旦那の方へもおげんの心を誘った。彼女が小山の家を出ようと思い立ったのは、必ずしも老年の今日に始まったことではなかった。旦那も達者、彼女もまだ達者で女のさかりの頃に、一度ならず二度ならず既にその事があった。旦那くらい好い性質の人で、旦那くらい又、女のことに弱い人もめずらしかった、旦那が一旗揚げると言って、この地方から東京に出て家を持ったのは、あれは旦那が二十代に当時流行の猟虎《らっこ》の毛皮の帽子を冠《かぶ》った頃だ。まだお新も生れないくらいの前のことだ。あの頃にもう旦那と関係した芸者は幾人となくあって、その一人に旦那の子が生れた。おげんがそれを自分の手で始末しないばかりに心配して、旦那の行末の楽みに再びこの地方へと引揚げて来た頃は、さすが旦那にも謹慎と後悔の色が見えた。旦那の東京生活は結局失敗で、そのまま古い小山の家へ入ることは留守居の大番頭に対しても出来なかった。旦那が少年の蜂谷を書生として世話したのも、しばらくこの地方に居て教員生活をした時代だった。旦那がある酌婦に関係の出来たのもその時代だ。その時におげんは旦那の頼みがたさをつくづく思い知って、失望のあまり家を出ようとしたが、それを果たさなかった。正直で昔気質《むかしかたぎ》な大番頭等へも詫《わび》の叶《かな》う時が来た。二度目に旦那が小山の家の大黒柱の下に座った頃は、旦那の一番働けた時代であり、それだけまた得意な時代でもあった。地方の人の信用は旦那の身に集まるばかりであった。交際も広く、金廻りもよく、おまけに人並すぐれて唄《うた》う声のすずしい旦那は次第に茶屋酒を飲み慣れて、土地の芸者と関係するようになった。旦那が自分の知らない子の父となったと聞いた時は、おげんは復たかと思った。その時もおげんは家を出る決心までして、東京の方に集まっている親戚の家を訪ねに行ったこともあったが、人の諫《いさ》めに思い直して国へと引返した。あれほどおげんは頼み甲斐《がい》のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあやまる旦那を眼前《めのまえ》に見、やさしい声の一つも耳に聞くと、つい何もかも忘れて旦那を許す気にもなった。おげんが年若な伜《せがれ》の利発さに望みをかけ、温順《おとな》しいお新の成長をも楽みにして、あの二人の子によって旦那の不品行を忘れよう忘れようとつとめるように成ったのも、あの再度の家出をあきらめた頃からであった。
そこまで思いつづけて行くと、おげんは独りで茫然《ぼうぜん》とした。それからの彼女が
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