自分の部屋を掃除するやら、障子をばたばた言わせるやら。そんなに早く起きられては若いものが堪《たま》らんなんて、よく家の人に言われる。わたしは隣りの部屋でも、知らん顔をして寝ているわいなし――ええええ、知らん顔をして」
 お新はこんな話をするにも面長な顔を婆やの方へ近く寄せて言った。
 そこへ小さな甥の三吉が飛んでやって来た。前の日にこの医院へ来たばかりで種々《いろいろ》な眼についたものを一々おげんのところへ知らせに来るのも、この子供だ。蜂谷の庭に続いた桑畠を一丁も行けば木曽川で、そこには小山の家の近くで泳いだよりはずっと静かな水が流れていることなぞを知らせに来るのも、この子供だ。
「桑畠の向うの方が焼けていたで。俺がなあ、真黒に焼けた跡を今見て来たぞい」
 こんなことを三吉が言出すと、お新は思わずその話に釣り込まれたという風で、
「ほんとに、昨日のようにびっくりしたことはない。お母さんがあんな危ないことをするんだもの。炭俵に火なぞをつけて、あんな垣根の方へ投《ほう》ってやるんだもの。わたしは、はらはらして見ていたぞい――ほんとだぞい」
 お新はもう眼に一ぱい涙を溜《た》めていた。その力を籠《こ》めた言葉には年老いた母親を思うあわれさがあった。
「昨日は俺も見ていた。そうしたら、おばあさんがここのお医者さまに叱られているのさ」
 この三吉の子供らしい調子はお新をも婆やをも笑わせた。
「三吉や、その話はもうしないでおくれ」とおげんが言出した。「このおばあさんが悪かった。俺も馬鹿な――大方、気の迷いだらずが――昨日は恐ろしいものが俺の方へ責めて来るぢゃないかよ。汽車に乗ると、そいつが俺に随《つ》いて来て、ここの蜂谷さんの家の垣根の隅《すみ》にまで隠れて俺の方を狙《ねら》ってる。さあ、責めるなら責めて来いッって、俺も堪らんから火のついた炭俵を投げつけてやったよ。もうあんな恐ろしいものは居ないから、安心しよや。もうもう大丈夫だ。ゆうべは俺もよく寝られたし、御霊《みたま》さまは皆を守っていて下さるし、今朝は近頃にない気分が清々《せいせい》とした」
 おげんは自分を笑うようにして、両手を膝《ひざ》の上に置きながらホッと一つ息を吐《つ》いた。おげんの話にはよく「御霊さま」が出た。これはおげんがまだ若い娘の頃に、国学や神道に熱心な父親からの感化であった。お新は母親の機嫌《きげん》の好いのを嬉しく思うという風で、婆やと三吉の顔を見比べて置いて、それから好きな煙草《たばこ》を引きよせていた。
 その朝から三吉はおげんの側で楽しい暑中休暇を送ろうとして朝飯でも済むと復《ま》た直ぐ屋外《そと》へ飛び出して行ったが、この小さな甥の子供心に言ったことはおげんの身に徹《こた》えた。彼女は家の方に居た時分、妙に家の人達から警戒されて、刃物という刃物は鋏《はさみ》から剃刀《かみそり》まで隠されたと気づいたことがよくある。年をとったおげんがつくづくこの世の冷たさを思い知ったのは、そういう時だった。その度に彼女は悲しさや腹立しさが胸一ぱいに込み上げて来て、わざわざ養子夫婦のいやがるように仕向けて見たこともある。時には白いハンケチで鼠《ねずみ》を造って、それを自分の頭の上に載せて、番頭から小僧まで集まった仕事場を驚かしたこともある。あんなことをして皆を笑わせた滑稽《こっけい》が、まだまだ自分の気の確かな証拠として役に立ったのか、「面白いおばあさんだ」として皆に迎えられたのか、そこまではおげんも言うことが出来なかった。とにかく、この蜂谷の医院へ着いたばかりに桑畠を焼くような失策があって、三吉のような子供にまでそれを言われて見ると、いかに自分ばかり気の確かなつもりのおげんでも、これまで自分の為《し》たことで養子夫婦を苦しめることが多かったと思わないわけにはいかなかった。
 お新は髪を束ね直した後のさっぱりとした顔付で母の方へ来た。その時、おげんは娘に言いつけて、お新が使った後の鏡を自分の方へ持って来させた。
「お父さんが亡くなってから、お母さんは一度も鏡を見ない。今日は蜂谷さんにもよく診察して貰《もら》うで、久しぶりでお母さんも鏡を見るわい」
 おげんは親しげに自分のことを娘に言って見せて、お新がそこへ持って来た鏡に向おうとした。ふと、死別れてから何十年になるかと思われるようなおげんの父親のことが彼女の胸に来た。おげんの手はかすかに震えて来た。彼女の父親は晩年を暗い座敷牢に送った人であったから。
「ふーん」
 思わずおげんは唸《うな》るような声を出して自分の姿に見入った。彼女が心ひそかに映ることを恐れたような父親の面影のかわりに、信じ難いほど変り果てた彼女自身がその鏡の中に居た。
「えらい年寄になったものだぞ」
 とおげんは自分ながら感心したように言って、若かった日に鏡に
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