ある女の生涯
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甥《おい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|覗《のぞ》きに来る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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 おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥《おい》なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳《かや》の内《なか》で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。
 八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。
「漸《ようや》く来た。」
 とおげんは独《ひと》りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容《い》れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎《いなか》医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。
「前の日に思い立って、翌《あく》る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」
「そうとも」
「そこは女だもの。俺《おれ》は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」
 これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部《なか》にはこんな独言《ひとりごと》を言う二人の人が居た。
 おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁《とつ》いで行った小山の家の祖母《おばあ》さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人《あととり》でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体《からだ》に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外《ほか》にはもう何等の念慮《おもい》をも持たなかった。
 このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑《にぎや》かに家を出て来たが、古い馴染《なじみ》の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮《こうふん》を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。
 蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。しかし日頃信頼する医者の許《もと》に一夜を送って、桑畠《くわばたけ》に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄《あさもや》の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い、静かな田舎に身を置き得たという心地もした。今度の養生は仮令《たとえ》半年も前からおげんが思い立っていたこととは言え、一切から離れ得るような機会を彼女に与えた――長い年月の間暮して見た屋根の下からも、十年も旦那の留守居をして孤《ひと》りの閨《ねや》を守り通したことのある奥座敷からも、養子夫婦をはじめ奉公人まで家内一同膳を並べて食う楽みもなくなったような広いがらんとした台所からも。
「御新造さま、大分お早いなし」
 と言って婆やが声を掛けた頃は、お新までもおげんの側に集まった。
「お母さんは家に居てもああだぞい」とお新は婆やに言って見せた。「冬でも暗いうちから起きて、
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