自分の側に見つけたものは、次第に父に似て行く兄の方の子であり、まだこの世へも生れて来ないうちから父によって傷《きずつ》けられた妹の方の子であったから。
 回想はある都会風の二階座敷の方へおげんの心を連れて行って見せた。おげんの弟が二人も居る。おげんの伜が居る。伜の娵《よめ》も居る。その娵は皆の話の仲間入をしようとして女持の細い煙管《きせる》なぞを取り出しつつある。二階の欄《てすり》のところには東京を見物顔なお新も居る。そこはおげんの伜が東京の方に持った家で、夏らしい二階座敷から隅田川《すみだがわ》の水も見えた。おげんが国からお新を連れてあの家を見に行った頃は、旦那はもう疾《とっ》くにおげんの側に居なかった。家も捨て、妻も捨て、子も捨て、不義理のあるたけを後に残して行く時の旦那の道連には若い芸者が一人あったとも聞いたが、その音信不通の旦那の在所《ありか》が何年か後に遠いところから知れて来て、僅《わず》かに手紙の往復があるようになったのも、丁度その頃だ。おげんが旦那を待ち暮す心はその頃になっても変らなかった。機会さえあらば、何処《どこ》かの温泉地でなりと旦那を見、お新にも逢《あ》わせ、どうかして旦那の心をもう一度以前の妻子の方へ引きかへさせたい。その下心でおげんは東京の地を踏んだが、あの伜の家の二階で二人の弟の顔を見比べ、伜夫婦の顔を見比べた時は、おげんは空《むな》しく国へ引返すより外に仕方がないと思った。二番目の弟の口の悪いのも畢竟《つまり》姉を思ってくれるからではあったろうが、しまいにはおげんの方でも耐《こら》えきれなくなって、「そう後家、後家と言って貰うまいぞや」と言い返して見せたのも、あの二階だ。そうしたら弟の言草は、「この婆《ばば》サも、まだこれで色気がある」と。あまり憎い口を弟がきくから、「あるぞい――うん、ある、ある」そう言っておげんは皆に別れを告げて来た。待っても、待っても、旦那はあれから帰って来なかった。国の方で留守居するおげんが朝夕の友と言えば、旦那の置いて行った机、旦那の置いて行った部屋、旦那のことを思い二人の子のことを思えば濡《ぬ》れない晩はなかったような冷たい閨《ねや》の枕――
 回想は又、広い台所の炉辺《ろばた》の方へもおげんの心を連れて行って見せた。高い天井からは炉の上に釣るした煤《すす》けた自在鍵《じざいかぎ》がある。炉に焚《た》く火はあかあかと燃えて、台所の障子にも柱にも映っている。いそいそと立ち働くお新が居る。下女が居る。養子も改まった顔付で奥座敷と台所の間を往ったり来たりしている。時々|覗《のぞ》きに来る三吉も居る。そこへおげんの三番目の弟に連れられて、しょんぼりと表口から入って来た人がある。この人が十年も他郷で流浪した揚句に、遠く自分の生れた家の方を指して、年をとってから帰って来たおげんの旦那だ。弟は養子の前にも旦那を連れて御辞儀に行き、おげんの前へも御辞儀に来た。その頃は伜はもうこの世に居なかった。到頭旦那も伜の死目に逢わずじまいであったのだ。伜の娵も暇を取って行った。「御霊《みたま》さま」はまだ自分等と一緒に居て下さるとおげんが思ったのは、旦那にお新を逢わせることの出来た時だった。けれども、これほどのおげんの悦びもそう長くは続かなかった。持って生れた旦那の性分はいくつに成っても変らなかった。旦那が再び自分の生れた家の門を潜《くぐ》る時は、日が暮れてからでなければそれが潜れなかった。そんな思いまでして帰って来た旦那でも、だんだん席が温まって来る頃には茶屋酒の味を思出して、復た若い芸者に関係したという噂《うわさ》がおげんの耳にまで入るようになった。旦那は人の好い性質と、女に弱いところを最後まで持ちつづけて亡くなった。遠い先祖の代からあるという古い襖《ふすま》も慰みの一つとして、女の臥《ね》たり起きたりする場所ときまっていたような深い窓に、おげんは茫然とした自分を見つけることがよくあった。
 考えまい、考えまいと思いながら、おげんは考えつづけた。彼女は旦那の生前に、自分がもっと旦那の酒の相手でもして、唄の一つも歌えるような女であったなら、旦那もあれほどの放蕩《ほうとう》はしないで済んだろうか、と思い出して見た。おげんはこんなことも考えた。彼女と旦那の間に出来たお新は、幼い時分に二階の階段《はしごだん》から落ちて、ひどく脳を打って、それからあんな発育の後れたものに成ったとは、これまで彼女が家の人達にも、親戚にも、誰に向ってもそういう風にばかり話して来たが、実はあの不幸な娘のこの世に生れ落ちる日から最早ああいう運命の下にあったとは、旦那だけは思い当ることもあったろうと。そればかりではない、彼女自身にも人には言えない深傷《ふかで》を負わせられていた。彼女は長い骨の折れた旦那の留守をした頃に、伜の娵《
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