よめ》としばらく一緒に暮した月日のことを思出した。その時は伜が側に居なかったばかりでなく、娵まで自分を置いて伜の方へ一緒になりに行こうとする時であった。
「俺はツマラんよ」と彼女の方でそれを娵に言って見せて、別れて行く人の枕許でさんざん泣いたこともあった。
「お母さん、そんなにぶらぶらしていらっしゃらないで、ほんとうにお医者さまに診《み》て貰ったらどうです」と別れ際《ぎわ》に慰めてくれたのもあの娵だった。どうも自分の身体の具合が好くないと思い思いして、幾度となく温泉地行なぞを思い立ったのも、もうあの頃からだ。けれども彼女が根本からの治療を受けるために自分の身体を医者に診せることだけは避け避けしたのは、旦那の恥を明るみへ持出すに忍びなかったからで。見ず知らずの女達から旦那を通して伝染させられたような病毒のために、いつか自分の命の根まで噛《か》まれる日の来まいものでもない、とは考えたばかりでも恐ろしいことであった。
「蛙《かわず》が鳴いとる」
 と言って、三吉はおげんの側へ寄った。何時《いつ》の間に屋外《そと》へ飛出して行って、何時の間に帰って来ているかと思われるようなのは、この遊びに夢中な子供だ。
「ほんに」とおげんは甥というよりは孫のような三吉の顔を見て言った。「そう言えば三吉は何をして屋外で遊んで来たかや」
「木曽川で泳いで来た。俺も大分うまく泳げるように成ったに」
 三吉は子供らしい手付で水を切る真似《まね》をして見せた。さもうまそうなその手付がおげんを笑わせた。
「東京の兄さん達も何処《どこ》かで泳いでいるだらずかなあ」
 とまた三吉が思出したように言った。この子はおげんが三番目の弟の熊吉から預った子で、彼女が東京まで頼って行くつもりの弟もこの三吉の親に当っていた。
「どれ、そう温順《おとな》しくしておばあさんの側に遊んでいてくれると、御褒美《ごほうび》を一つ出さずば成るまいテ」
 と言いながらおげんは菓子を取出して来て、それを三吉に分け、そこへ顔を見せたお新の前へも持って行った。
「へえ、姉さんにも御褒美」
 こうおげんが娘に言う時の調子には、まだほんの子供にでも言うような母親らしさがあった。
「蛙がよく鳴くに」とその時、お新も耳を澄まして言った。「昼間鳴くのは、何だか寂しいものだなあし」
「三吉や、お前はあの口真似をするのが上手だが、このおばあさんも一つやって見せずか。どうしておばあさんだって、三吉には負けんぞい」
 子供を前に置いて、おげんは蛙の鳴声なぞを真似して見せて戯れるうちに、何時《いつ》の間にか彼女の心は本物の蛙の声の方へ行った。何処かの田圃《たんぼ》の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草木の感じまでが憂鬱《ゆううつ》で悩ましかった。
「何だか俺はほんとに狂《きちがい》にでも成りそうだ」
 とおげんは半分|串談《じょうだん》のように独《ひと》りでそんなことを言って見た。耳に聞く蛙の声はややもすると彼女の父親の方へ――あの父親が晩年の月日を送った暗い座敷牢の格子の方へ彼女の心を誘った。おげんは姉弟《きょうだい》中で一番父親に似ているとも言われた。そんなことまでが平素から気になっていた。どうして四十になっても独り立ちの出来ないような不幸な娘を連れていて――それを思うと、おげんは自分を笑いたかった。彼女はそこに置いてある火鉢から細い真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》を取って見て、曲げるつもりもなくそれを弓なりに折り曲げた。
「おばあさん――またここのお医者様に怒られるぞい」
 と三吉は言って、不思議そうにおげんの顔を見ていたが、やがて子供らしく笑い出した。こういう場合に側に居るものの顔を見比べて、母を庇護《かば》おうとするのは何時でもお新だった。
「三ちゃんにはかなわない。直ぐにああいうところへ眼をつけるで」
 とお新も笑いながら言って、母の曲げた火箸を元のように直そうとした。お新はそんなことをするにも、丁寧に、丁寧にとやった。
 蜂谷の医院へ来てから三週間ばかり経《た》つうちに、三吉は小山の家の方へ帰りたいと言出した。おげんは一日でも多く小さな甥《おい》を自分の手許《てもと》に引留めて、「おばあさんの側が好い」と言って貰いたかったが、退屈した子供をどうすることも出来なかった。三吉は独りでも家の方へ帰れると言って、次の駅まで二里ばかりは汽車にも乗らずに歩いて行こうとした。この田舎育ちの子供が独りでぽつぽつ帰って行く日にはおげんはお新と二人で村はずれまで見送った。学校の生徒らしい夏帽子に土地風なカルサン穿《ば》きで、時々|後方《うしろ》を振返り振返り県道に添うて歩いて行く小さな甥の後姿は、おげんの眼に残った。
 三吉が帰って行った後、にわかに医院の
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